12月は波瀾万丈!
とはいっても、自分の感覚をつぶやいているこのブログには関係ないことなので、アップしていなかった部分を述べるにとどめよう。
本考40 時代小説にも良いたとえあり その2 4.12.28
前と同じ澤田ふじ子の「公事宿事件書留帳」シリーズを続けて読んでいる。あと少しで22巻のシリーズを読み終わる。
その中に取り上げられているいくつかの話を抜き書きしてみたいと思う。
「世の中は、駕籠に乗る人担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」このことわざは、身分の上下を指しているわけではない。人間の社会ぬは、それぞれ分に応じた役割があり、一見、別々だが、誰にもその存在価値があるといっているのである。」
誰もが、駕籠に乗る人になりたいと思うようだが、それぞれ自分を生きればいいんだなあ。私も管理職になったが、偉くなりたくてなったわけではない。より多くの子供の教育をしたかったからだ。同じ管理職でも威張りたがりやの人をよく見かけた。そういうとき、私はそうはならないぞと心に誓ったものだ。だから、自分の職分やできる範囲を逸脱したことはない。自分を知り、自分のできることを真摯に行うことがたいせつなんだと思う。
「学問は、自分の立身出世の為だけではなく、世のため人のためにいたすものと、深く心得ておかねばならぬ。・・・不幸な人々を救う道を思案するのも、学問の中の一つと考えてもよかろう。」
前にも書いたかも知れないが、私は、中学から勉強が嫌いになりやりたいことも見付けられなかった。そんなとき、高校の先輩の言葉が身にしみた。「ニュートンやライプニッツは、神のために学問をした。私は、人間のために学問をしたい。」それから、少しずつ勉強を始めた。そして、教育者を目指すようになり「子供のために学問をしたい」と思ってから学問をすることが楽しくなった。
「この広い世の中には、ええ人と悪い人が半々にいてはります。そやけどどれがええお人で、どれが悪いお人かわからしまへん。なんかの事情で、それがころっと入れ替わる場合かてありますさかいなあ。それに人の妬みや怨みいうもんは、ほんまに強おす。自分にとってええことは、人に妬まれんように、決して軽々しく明かしてはなりまへん。反対に人の具合の悪いことや不幸は、迂闊に話題にするものではありまへんえ。また人間の繋がりは、親子や兄弟という血で結ばれているのではありまへん。人間はこの広い世の中から、自分と同じ考えを持ち、共に暮らせるお人ととめぐ合うて夫婦になったり、友達になったりしていくんどす。血が繋がっていたかて、考え方や生き方が違うてたら、親でも子でもありまへんのや」
いい教訓なのだが、親や子や夫婦でもなかなか難しいもんです。
「中国の『懸攣という書物に、こんな話が書かれています。蕎の娘蕃は、東海で水に溺れて死に、精衛といわれる鳥に生まれ変りました。その精衛は自分を溺死させた大海原を埋めようと、小さな木片をくわえてきて、海に落しつづけていたそうです。木片ぐらいで大海原など、埋められるものではありませぬ。それでも精衛という名の鳥になった女娃は、これをつづけていたそうです。報いられなくても、諦めずに一つのことを力を尽くしてつづける。結果、無意味でもそれは美しく、大切なことなのですよ」
『精衛微木を街み、将に以て槍海を填めんとす』連作詩「山海経を読む」その第十にこう記されていた。これはまことに壮絶で激しい詩句じゃわい。義母上さまはわしにいい言葉を教えてくだされた。わしとてそのお心に応えねばなるまい。菊太郎が武芸の修練にいっそう励むようになったのは、それからであった。その武芸がいまでは大いに役立っている。
前にかいた、「ハチドリの話」を思い出した。少しの努力でもしないよりは良い。いや、するほうが良い。それが自分を幸せにする。
散歩途中の並木道4.11.13
皆既月食4.11.8
きれいに撮れたのだけアップします。
紅葉が始まった?4.11.7
もう葉の落ちた木も多く見受けられるが、所沢市役所近辺の竹林と紅葉
文化祭出品4.11.5〜6
作品の制作等で10月は、アップが出来ませんでした(^_^;
大した作品ではありませんが、載せさせてもらいます。
曹洞宗のお寺にある掲示板の言葉 その3 4.10.15
「豊かだから施す(ほどこす)のではない。 施すから豊かになるのだ。」とあった。
丁度その時読んでいた澤田ふじ子の「公事宿事件書留帳11 無頼の絵師」の中に次のような文章があった。
「・・・菊太郎の若旦那さまは、世間では士農工商と人間をおよそ四つに分けているが、誰の身分が高いのでもなく、人はみな同じに尊いものじゃというてはるわい。酒飲みも女たらしも、泥棒も物乞いもいて世の中。強いてもうせば、侍が世間で一番無用かもしれぬ。商人は人が必要とする良い品を、少しでも安く売る。銭儲けにはどうしても罪悪感がともなうゆえ、金持は贖罪のため、世間に役立つことを行わねばならぬとも、いうてはったがな」
「いわれたら、そうやわなあ。要するに人間にも仕事にも貴賎はなく、誰でも世の中に必要いうこっちゃな」
今の世の中、金儲けだけにうつつを抜かし、金持ちこそが偉いように思っている人間の多いこと・・・昔の金持ちは、寄付や援助をするのが金持ちの役目だと考えていたのだと思うのだが!
そして、また別の所にこうあった。
「あの八十吉はん夫婦は信心深いお人たち。毎日、商いに出かけるときと長屋に戻るときの二度、必ず大八車を止め、こぬか薬師さまにお参りしてはる。ときにはお饗鎌を投げてお祈りしてはりますわ」
「こぬか薬師はんは確かにあそこに祀られてはる。そやけどわし、ほんまのことをいうと神さんや仏はんは、どこにも居てはらへんように思えてならんわ。神社のこ神官やお寺の坊さまたちは、わしらのご先祖さまの成仏や死後の次第を、質に取ってはるみたいなもんや。やれ月参りだの年忌だの、後生だのと称して、貧乏人からでも銭を取り上げはる。それにくらべ、八十吉はん夫婦は、目に見えてありがたいお人たちやわ。売れ残りやというて、わしらに大根一本、菜っ葉の一把でも持ってきてくれはるさかいなあ。神さんや仏はんには、こっちが持っていかれるだけで、わしらにはなんのご利益もないわい」
「おまえ、そんな罰当たりなことを、大きな声でいわんとけや。少し口を慎まなあかんのちゃうか」
「おまえはそういうけど、どこの神さんや仏はんに、どれだけお賓銭を上げてお祈りしたかて、ええことは全然ないやろな。せいぜい空を飛んでる鳩に糞を落とされるか、石段を踏み誤って転ぶぐらいのこっちゃ。わしらにとっての神さんや仏はんは、八十吉はん夫婦やわ」
「ほんまにそうえ。あんまり明け透けにいいとうないけど、うち八十吉はんたちが大八車を引いて帰ってきはるたび、今日はなにをくれはるのかいなあと、実は楽しみにしてますねん」
今の国会で問題になっている宗教問題の答えみたいに感じてしまう。
秋の草花 4.9.27
どちらも航空公園東口から南に歩いた公園内の土手に咲いた曼珠沙華
毎年咲いてくれるので楽しみにしている。もうすぐおわりかな?
大通りの車道と歩道とのすき間に咲いた花たち!つい見過ごしてしまうようなことでも、気付かなくてはいけないんだなぁ〜
本考39 時代小説にも良いたとえあり 4.9.22
本考?かどうかわからないが、時代小説は、どちらかというと娯楽的なものが多い。そういう物語の中に取り上げられている「名言」がなかなか面白い。
宇江佐真理の本にもあったが、女性作家の方が人情ものが多いせいか「名言」を取り上げることが多いようだ。
賞をもらうような時代物は、なかなか細かく人の生き方を描写しているので「名言」を取り上げるより中身に意味を持たせることが多いようだし、男性作家は娯楽性が強い武士ものが多いように感じる。まあ、どちらも特徴があり読んでいて楽しい。そういえば、小学生の時によく時代小説を読んだ。父親が好きで家にいっぱいあったからだ。吉川英治の宮本武蔵や山手樹一郎の侍物など読んだ記憶がある。
今回は、澤田ふじ子の公事宿事件書留帳シリーズ「木戸の椿」から取り上げてみた。
・・・兼好法師は「徒然草」のなかで、ともとするにわろ(悪)き者、七つありと書いている。(中略)一つには、高くやんごとなき(身分が高い)人。二つには、若き人。三つには、病なく身強い人。四つには、酒を好む人。五つには、たけく勇める兵(つわもの)。六つには、そらごとする(嘘をつく)人。七つには、欲深き人。
兼好法師はそのつぎに、よき友三つありとつづけている。一つには、物くるる友。二つには、医師(くすし)。三つには、知恵ある友・・・
そう考えると読書は、言葉の宝庫だ。忘れていたことを思い出させてくれる。
時間のあるときには、言葉探しの旅をしてみよう。自分の人生を振り返りながら、そこに刻まれた多くの言葉たちと語り合いながら!
植物の生命力4.9.9
左 切り株に芽を出している新芽:多分他の木の種がすき間に入って芽を出したものと思われる。
右 公園にあるツツジの植栽の端から大きく枝を伸ばしたムラサキシキブ:この写真を撮ってから2〜3日してから行ってみると植栽の手入れに入ったようで、きれいに刈り取られていた。だったら少し前に切り取って、ドライフラワーにすれば良かったと思えど、後の祭り。
本考38「生きるとは自分の物語をつくること」4.8.31
ご存じの方も多いと思うが、作家小川洋子と心理学者河合隼雄の対談集である。そして、河合隼雄の最後の対話でもある。
その中にアウシュビッツの話が出てくる。
小川 手を下した側の人も、物語を持っています。アイヒマンというナチの高官は、亡くなった方々の記録を見ても、自分の罪を決して認めないんです。懺悔しない。自分は命令されて役人としての仕事を果たしただけだ、というところで止まっちゃってるんです。それより先に絶対行こうとしない。
彼には小さい男の子がいて、その子に「ウサギ」とあだ名を付けて可愛がっていた。「君にも可愛いウサギがいるじゃないか。その子と同じような子供を、君は殺したんだ」って言われると、「ユダヤ人だったから仕方ない」と言う。
メチャクチャな論理なんですけれど、彼の中ではそれが砦なんです。そこで泣き崩れて、後悔し幟悔するという方が、彼には辛いんでしょうか。
河合 泣き崩れたりしたらその人は人格がなくなりますから。ところが日本人は、泣き崩れてもちゃんと人格があるんですよ。そこが欧米人と日本人のものすごい違いですね。
小川 日本人には逞しさがあるということでしょうか。
河合 いや、逞しさというより、そういうカルチャーだからということでしょうね。そこはちゃんと考えていかないといけない。
そこで、考えてみました。ロシアのプーチンにもそのような砦があるのだろう。だから、後悔したり懺悔することもないのだと思った。そのために、「相手はナチなのだから仕方が無い」と言うのではないだろうか!その話の最後にこうも書いています。
小川 少年が挟まれて死亡したエンベーターのシンドラー社の社長も、絶対謝りませんね。
河合 謝ったら人格の崩壊ですから。会社も崩壊しますしね。
小川 とにかくその亡くなった子のために頭を下げればいいのに、出来ないんですね。
河合 絶対出来ない。それをしないっていうカルチャーの中で彼らは生きてきたわけですから。
今日は、ここまでにします。またの機会に「カウンセリング」について述べているところに触れたいと思っています。
SDGsの記事からまとめてみました
全く無視している人たち(一番ひどいのは戦争)もいますが、私たちは私たちの出来ることをしていくしかないのだと思います。
「心の故郷」その2 4.8.27
次のような文を書いています。
子供の話だけではなく、大人にも心の故郷になった例があります。小学生の子供をもつある父親の話です。
たまたま小学校で開かれた講演会に母親から無理矢理出席させられたのですが、その講師から「仕事をやっているときは気が付かないのですが、実は仕事から帰ってきたら家庭の中しか居場所がないんです。仕事での居場所があっても、仕事の居場所は仕事をやってるときだけですよ。子供もお母さんもしっかり地域での居場所を作っています。あなたに地域での居場所はありますか?」と投げかけられて考えました「確かにそうだな!」と。
そこで、それからは休みの日には子供を通じて親同士の活動を始めたり、家族同士の付き合いを始めたり、地域の活動に参加したりと生活が変わりました。後日、そのお父さんに聞いたところ「家に帰ってからの生活がとても楽しくなった。」と、活動したことを笑顔でいろいろ語ってくれました。その時、大人でも地域が故郷になることがあるのだと感じました。
次に書こうと思っている文も載せておきます。
幼児から低学年まで遊べる「砂場」について考えてみました。
砂遊びのメリット
@手先が器用になる・・・触感が様々に有ことでいろんな手や用具の使い方を覚え、他の子どもや大人なの手の使い方を学ぶ。
A運動能力が向上する・・・座る、立つ、掘る、持つ、運ぶ、積むなどの様々な姿勢や動きで平衡感覚や巧緻性、身体の支持能力など体力・運動能力を培う。
B忍耐力や集中力、創造力が高まる・・・砂は、細かいのでなかなか形を作ることが難しいため形を作るためには何度も繰り返し挑戦したり工夫したりしなくてはなりません。出来たときの喜びや達成感がこれらの能力を向上させます。
C社会性を向上させる・・・様々な人と一緒に遊ぶことにより様々な状況での対応を覚える。
注意点
@汚れてもいい服装
A危険物(排泄物やガラス等)の除去
B砂を口に入れない等トラブルの注意
などに気を付けて遊ばせて欲しいと思います。
本考37 宇江佐真理の本から 4.8.15
ここのところ宇江佐真理の本をいくつか読んだ。「髪結い伊三次捕物余話シリーズ」15巻全巻を読み終えてからミステリーを読んでいたが、また6月頃から読み始めた。
「酔いどれ鳶」「おはぐろとんぼ」「為吉」 [泣きの銀次]「聞き屋与平」「室の梅 おろく医者覚え帖」 「古手屋喜十為事覚え」「斬られ権左」・・・
その中から最近読んだ「斬られ権左」を紹介しよう。
主人公の権佐は、医者のあさみを助けるために88カ所の傷を負い、生き返るがいつ死んでもおかしくない。死に損ないの権佐は、自分がいつ死んでもおかしくない存在だと承知しているので、己の運命すら達観した者として描かれている。その縁で妻となったあさみと子供のお蘭が、権左が死んでから二人で舟に乗って花見に行く場面で物語は終わる。その最後の場面が印象に残った。
帰りの舟で二人は、大川につかり垢離を掻く(祈祷)人々の姿を見る。「さんげ、さんげ、ろっこんざいしょう、おしめにはつだい……」
・・・「本当は六根清浄と言うんだよ。いつの聞にか違う文句になっちまったんだねえ。まあ、それでも信ずる気持ちに変わりはないから」
「六根清浄はどんな意味があるの?」
「眼、耳、鼻、舌、身体、心、六つのことを六根と言うんだ。そこからくる一切の迷いを断ち切って心身を清らかにするということだよ。」
・・・「お蘭、あたしもあれをすればよかったよ」あさみは低い声で言った。
「何よ、いまさら。お父っつあんは寿命だったのよ。それは、おっ母さんが一番知っていたことじゃないの」
「でも、垢離を掻けば、もう少し長生きできたような気がするよ。よその病人ばかり手当して、あたしはたった一人の亭主も助けられなかった。あたしは悪い女房さ」
・・・声を掛けると、こちらを向くが、その時、白眼を剥いたようになる。友達がそんな権佐を見て、気持ちが悪いと言ったことがあった。だが、お蘭は気丈に「お父っつあんは、おっ母さんを助けるために斬られ権佐になっちまったんだよ。あんたのお父っつあん、おっ母さんのためにそんなことできる?できないよね。さしずめ、あんたのお父っつあんは、ぶるぶる震えて逃げちまうだけさ」と、口を返したものだ。
・・・お蘭は権佐の最期の言葉を忠実に守った。あさみの傍にいること、寂しがりやだから傍にいること。だが、お蘭は、それをあさみに言ったことはなかった。言えば、あさみの心の重荷になるだろう。だから言わなかった。軽口を叩き合って、時々、あさみに着物や帯をねだり、せいぜい、いつまで経っても手の掛かる娘を演じてやるつもりだった。
(お蘭、おれが言ったこと忘れんなよ)権佐のしゃがれた声がお蘭の耳に聞こえた。
最後に解説の藤水名子さんも書いているが、あさみが言った「おっこちきれた」という江戸の言葉について書いて終わりにしよう。
「おっこちきれたのおっこちは遠近の訛った(なまった)もので、きれたがつくと、男女の間では、その垣根が取り払われたことになり、親しい関係を意味する。下世話に言えば、ぞっこん惚れたということである。」とある。「おっこちきれた」とは、いい言葉ではないか!
心の故郷とは?4.7.29
「心の故郷」について考える機会がありました。その時、書いた文章を抜粋すると、
「子供の心には祭のような様々なイベントが町としての印象に残る思い出になります。子供は様々な経験を積んで成長します。特に、感動体験は、良い人間形成に大きく影響します。逆に、心に傷を負うような体験は、悪い人間形成に影響してしまいます。
子供の頃には気付かなかった多くのことが、今思い出すと楽しくもあり、役立つことだったことだと感じます。子供の頃に経験した様々な事項が今の自分の原体験となって生き続けていることが年齢を重ねる程にわかってくるようになりました。」でした。
「ふるさと」を感じる事とは何かと考えてみたら、思い出に残る「懐かしい場所」「懐かしい人」「懐かしい味」かな?と思いました。私の懐かしい・・・は?
「懐かしい場所」
私が生まれてから中学1年生まで育った場所は、青山です。当時の青山は、まだ開けてはいなかったので、家の前には畑がありました。その畑に廃材を持ち込んで勝手に小屋を建てました。いわゆる隠れ家です。小学校から帰るとそこで遊んでいましたが、ある日行ってみると浮浪者が寝ていました。それからは恐くて近寄れませんでしたが、そのうち取り払われてしまいました。
原宿の東郷神社の池にザリガニ釣りに行ったこともあります。毎日、近くの広場で三角ベースをやり、休日には都電の車庫にあった広場でクラス対抗の野球をやりました。当然、学校での休み時間は、屋上での手打野球です。早い者勝ちの場所取りが大変でチャイムが鳴ると階段を駆け上がって行ったことを思い出します。
「懐かしい人」
夏になると夏祭りがありました。山車を曳いて町中を練り歩き、会所会所で飲み物やお菓子をもらいました。子供の周りにはいつも見守る親がいて大人たちがいて、子供だけではなくみんなで楽しく出来ることの良さを学びました。まだ、はっぴを着てはちまきを巻いた写真があります。祭は、人と人とのつながりでできています。祭を一人でやっても楽しくはありません。社会の一員として参加することで、社会性が培われ、社会の一員としての居場所ができるのではないかと思います。
懐かしい人と言えばなんといっても家族ですが、その頃は祖父母と一緒に住んでいたので、食事など何でも一緒にやったことを思い出します。私も井戸で風呂の水くみをしたり、風呂にくべる薪割りをしたり、買い物をしたりと自分の役割がありけっこう忙しく、遊びから帰ると忙しい思いをしました。親父がGHQに努めていたのでそれでも当時としては、良い方の生活だったのだと思います。GHQを辞めて会社を興し、丁度、東京オリンピック前に事業が立ち行かなくなり家も売り払って貧乏生活になってしまったことも今は良い思い出です。あのままだったらろくな人間に育っていないと思うからです。(ひがみではありませんよ!本当にそう思っています。)
「懐かしい味」
当時の青山には、都電が走っていて、商店街も多くありました。初めに思い出したのは、幼稚園に行くとき弁当が出来なくて買って行ったコッペパンです。その場で中にジャムを入れてくれて、今考えるとたまにしか食べられない味だったので美味しく感じたのだろうと思います。その当時のコッペパンは給食を思い出すと美味しくは無かったのですから(笑)
次に思い出すのは、コロッケ屋さんです。これも母親が晩ご飯のおかず作りに間に合わないときに買いに行きました。フランス料理店を辞めて夫婦で始めた店でした。ラードで揚げるコロッケの美味しかったこと・・・。たまに給料日と当たると父親だけはとんかつで、後はみんなコロッケでした。でも私しにはコロッケの方が旨かった。
また、たまに出前をとるときもありましたが、その中ではカレーと餃子がピカイチでした。カレーは、家で作るものとは違いホテルの味のような感じでまた違う味でした。餃子は1つが10cmほどの大きなもので中から汁がじゅわっと出てきてそれは格別でした。
もちろん、母親の味も忘れてはいませんが、それは表現できないので、お店の味を取り上げました。しかし、その店も東京オリンピックのおかげで立ち退いたり小さくなったりしてしまいました。今残っているのは、紀伊國屋くらいでしょうか。私にとって東京オリンピックは、よい思い出だけではなかったのでした。
本考36 原田マハ「風のマジム」を読んで 4.7.12
「風のマジム」とは沖縄・南大東島で採れるサトウキビから作られるラム酒の名前だ。
「マジム」とは、沖縄の言葉で「真心」という意味であり、この物語の主人公の名前でもある。
物語は、主人公のまじむが、本島一番の豆腐作りのおばあとアグリコール・ラム飲んで感動し、沖縄産のラム作りに奔走する話だ。
その時、まじむは、おばあにはげまされる。
「あたりまえさ(ちゃーしんてー)」
おばあは、微笑んだ。
「風ぬ育てた酒なんだから」
そう聞いて、一瞬、胸の中に涼やかな風が吹く気がした。
「まじむ。お前も、育っていけ。いいことも悪いことも、全部(むる)、風に吹かれれば、何とかなるさ(なんくるないさ)。」
様々な試練や出会いと共生があり、できあがったうちなーラムには「風のマジム Island Dreamer」と名付けられる。
「風の真心 夢見る島人(しまんちゅ)」だ!
「君がいちばん飲ませたい人に、持って行ってあげて」と五朗(行きつけのバーのバーテン)に酒を渡され「『この風がまじむ(くぬかじゃあれ)の言ってた島の風か(しまぬかじや9』。そう言いたそうにして、おっかあといっしょに、すぐ近くのさとうきび畑で風に吹かれてるよ。−−−あの人が」
そして、まじむは、おばあの元に・・・笑いながら、声にならない声でつぶやいている。
風の酒を、飲もう。真心のさけを。(かじぬさきや、のもう。まじむのさきや。)
どうも、私は、成功物語(といってもタダ成功すれば良いというのではなく、心に響く物語)が好きなようだ。読んでいて何回か涙ぐんでしまった。(これは、歳のせいかもしれないが・笑)
早速、この物語のモデルになった沖縄産アグリコール・ラム「グレイスラム・コルコル」を購入した。今晩、飲む予定だ。風を感じることが出来るだろうか?楽しみだ。
航空公園彩翔亭 池の蓮 4.7.10
どこかの紹介で古代蓮と書いてあったが、私にはよくわからない!
左=蓮の花にとまるシオカラトンボ 右=同じ池に咲く睡蓮
本考35 凪良ゆう 二作品 4.6.29
凪良 ゆう作品「神さまのビオトープ」と「わたしの美しい庭」を読んだ。
「神さまのビオトープ」は、亡くなった夫の幽霊と暮らす主人公が織りなす4つの物語が描かれている。
いろいろな人がいて、いろいろな人生があり、いろいろな幸せの形がある。その人なりの生き方があって良いと一般的な生き方から外れた人たちの救いの物語だ。
「わたしの美しい庭」は、マンションの屋上にある「縁切り神社」とそこを訪れる断ち切りたいものをかかえた人たちの物語。
各物語りの語り部はこの物語に出演するメンバーがそれぞれを語る形式で作られている。
ここには「生きづらさを抱えた人たち」が出てくるが、ここでもそれぞれの生き方が認められ、自分を受け入れていく快さがある。そのために語り部が自分なりの目線で代わる代わる語ることで、立場を変えたやさしい目線で語れるのだと思った。
神社の神主を引き継いだ統理と暮らす別れた女房の子供百音、絶妙な関係を設定したことで、この物語がやさしく生きることの良さを描く事が出来るのだろう。私は、この親子の軸がとても気に入った。しっかりとした生き方をもち、そして、それがやさしい!
日々の中でいろいろな問題や悩みをかかえていても、やさしく楽しく生きてゆくことができると思わせる物語だった。
曹洞宗のお寺にある掲示板の言葉 その2 4.6.22
1月に載せた文章の第2弾
毎月替わると思っていたのだが、もう5ヶ月・・・不定期らしい!!!その内容は!
「いざこざが 無かったら この世は ボケてしまう」
世の中、いざこざばかり!嫌だと思うより捉え方を変えるといいという話か?
いざこざばかりあると、ボケるヒマもないからな〜!
「いつでも ハイ の一言が いえたら 楽になる」
「ハイ」と言えないということは、自分の我を張るということなので、気持ちを切り替えて「ハイ」と言うと円く収まるし、気持ちもいい。
しかし「ハイ、ハイ」は、ダメなんだな〜!
本考34 教科書で読む名作 中島敦著 4.6.16
山月記くらいは読んだ人がいると思うが、これらの名作が高校の教科書に取り上げられたのは昭和26〜63年なので、目にしていない人も多いかと思います。
この本に載せられている作品を簡単に紹介すると
山月記(人喰い虎になってしまう詩人の話)
名人伝(弓の名人が歳をとり弓の全てを忘れてしまう話)
狐憑(こひょう 憑き物が憑いた者の行く末)
幸福(夢の中で富める長老と下男が逆転する話)
牛人(昔契った女の子供「牛人」に支配され死ぬ男)
悟浄歎異(ごじょうたんに 沙門悟浄の手記)
弟子(ていし 孔子ととその弟子・子路の話)
李陵(漢の騎馬部隊の長官・李陵が勇猛に戦い捕虜になって生きる話)
有名な「山月記」を読んでみると、人喰い虎になってしまう恐ろしさや人間の心がその中に埋もれて消えてしまう恐ろしさだけでないように思われる。
主人公自身が、「臆病な自尊心」と「尊大な差恥心」と自分を語ったことが、どうも「臆病な差恥心」と「尊大な自尊心」をわざと入れ替えたような気がする。そのことからすると、主人公が、人間と虎とを入れ替えることで自分自身も架空の存在としてしか生きられないという人間の愚かしさを表しているのではないかと感じてしまう。
まだ、中島敦を読んだことがない人は、この名作集から初めてみるといい。
ちなみに、私は孔子の話も面白かったが、沙悟浄が三蔵法師や悟空、猪八戒を語る「悟浄歎異」が面白かった。知っている西遊記とはまた違う趣があるからだろうか。
「悟浄歎異」で沙悟浄は語る。「三蔵法師は、不思議な方である。実に弱い。驚くほど弱い。変化の術ももとより知らぬ。道で妖怪に襲われれば、すぐに掴まってしまう。弱いというよりも、まるで自己防衛の本能がない」「あの弱い師父の中にある、この貴い強さには、まったく驚嘆の外はない。内なる貴さが外の弱さに包まれているところに、師父の魅力があるのだと、俺は考える。(中略)外面的な困難にぶつかった時、師父は、それを切り抜ける道を外に求めずして、内に求める。つまり自分の心をそれに耐え得るように構えるのである。いや、その時慌てて構えずとも、外的な事故によって内なるものが動揺を受けないように、平生から構えができてしまっている。いつどこで窮死してもなお幸福であり得る心を、師はすでに作り上げておられる。だから、外に道を求める必要がないのだ。我々から見ると危なくて仕方のない肉体上の無防御も、つまりは、師の精神にとって別に大した影響はないのである。」
「妖怪の手から救い出されるたびごとに、師は涙を流して悟空に感謝される。「お前が助けてくれなかったら、わしの生命はなかったろうに!」と。だが、実際は、どんな妖怪に食われようと、師の生命は死にはせぬのだ。二人とも自分たちの真の関係を知らずに、互いに敬愛し合って(もちろん、時にはちょっとしたいさかいはあるにしても)いるのは、面白い眺めである。およそ対踪的なこの二人の間に、しかし、たった一つ共通点があることに、俺は気が付いた。それは、二人がその生き方において、ともに、所与を必然と考え、必然を完全と感じていることだ。さらには、その必然を自由と見倣していることだ。金剛石と炭とは同じ物質から出来上がっているのだそうだが、その金剛石と炭よりももっと違い方の甚だしいこの二人の生き方が、ともにこうした現実の受け取り方の上に立っているのは面白い。そして、この「必然と自由の等置」こそ、彼らが天才であることの印でなくて何であろうか?」と。
最後に野宿している星空の下で沙悟浄は思う。「その時ふと俺は、三蔵法師の澄んだ寂しげな目を思い出した。常に遠くを見詰めているような、何物かに対する憐れみをいつも湛えているような目である。それが何に対する憐れみなのか、平生はいっこう見当が付かないでいたが、今、ひょいと、分かったような気がした。師父はいつも永遠を見ていられる。それから、その永遠と対比された地上のなべてのものの運命をもはっきりと見ておられる。いつかは来る滅亡の前に、それでも可憐に花開こうとする知恵や愛情や、そうした数々の善きものの上に、師父は絶えずじっと愍れみの眼差しを注いでおられるのではなかろうか。」
自分自身の滅亡も近いが、現実の世界も滅亡に向かっているように感じられる時に三蔵法師は何を思うのであろうか?私も滅亡までの生の間、善きものを見、感じ、できるだけの善きことをするしかないのだと思った。
我が家の小さい庭の花たち 6.11
6月初旬のクレマチスが終わり、今はギボウシが満開
そして、近所に咲くアジサイたち
本考33 歴史探偵 開戦から終戦まで 半藤一利 4.5.27
どうしても戦争の行方が気になり、半藤さんの歴史の流れから見た戦争を読んでみた。
太平洋戦争下の日米両海軍の軍人をリーダーシップの観点から分析した話だったので、その中からリーダーの条件を整理してみた。その条件に合わないような指揮官は負け、条件に合うような指揮官は勝つ、ということを歴史の中から拾い出している。
〈リーダーの八つの条件 理想の指揮官〉
一番リーダーに要請されるものは、その最大の仕事は決断すること
二番目は、部下に対して明確なる目標を与えること
三番目は、常に権威を明らかにしておくということ
四番目は、指揮官は常に焦点の場所に位置せよということ
五番目は、情報は確実に自分の耳で聞けということ
六番目は、想像と現実とを切り離せ、あるいはロマンと現実とを切り離せということ
七番目は、部下に最大限の任務の遂行を常に求めよということ
八番目は、規格化された理論(決められた理論ないしは慣習)にすがるなということ
これらは、一般社会でのリーダーとしての条件にも合うもので、勝ち負けには関係なく身に付けていて損はないので、身に付けるよう努力することでリーダーになる資質を備え、人間としての成長も図れるのではないかと思うのだが、どうだろうか?
更に知りたいと思うのであれば、本を読んでください。
雨の音で眠れない夜 4.5.18
先日、雨音がひどくてなかなか寝付けなくて浮かんだ言葉を詩の形にまとめてみました。
眠られぬ夜の向こうに
今夜も雨粒の進軍が止まらない
規則正しく屋根を叩くのだ
遠い空の向こうで 兵隊の足音で眠れない人がいる
兵士の踵が規則正しく 地面を蹴るのだ
今夜も風の進軍が止まらない
強く激しく窓を揺らすのだ
遠い空の向こうで 大砲の音で眠れない人がいる
砲弾が唸りを立てて 飛んでくるのだ
今夜も波の進軍が止まらない
大きくうねりながらドアに押し寄せるのだ
遠い空の向こうで 戦車の音で眠れない人がいる
キャタピラーが軋んだ音を立て 迫り来るのだ
今夜も無音の進軍が止まらない
静けさが頭の中を支配するのだ
遠い空の向こうで 音のない世界に眠れない人がいる
爆弾がいつ落ちてくるかわからないのだ
今夜も妄想の進軍が止まらない
渦巻く不安が 胸を押しつぶすのだ
遠い空の向こうで 恐怖で眠れない人がいる
死に神が命を奪いに来るのだ
だが今夜も明日への祈りは止まらない
手と手を合わせ 夜明けを願うのだ
遠い空の向こうでも 神に祈っている人がいる
眠られぬ夜の向こうに夜明けが来ることを
眠られぬ夜の向こうに夜明けがあるから
心の中に生きる希望が湧いてくるのだ
眠られぬ夜の暗闇の中で目を閉じ
じっと我慢して明日の光を待つのだ
散歩中の出来事 4.5.15
夕方、近くの細い道路を散歩中曲がり角を抜けると、先の方でうずくまっている人の姿があった。近づいていく途中で。反対側から歩いてきた若い女の人が、気付いて声をかけて行くところだった。
私が、近づいてみると年老いた男の人が鼻血を出していて、レンズにひびが入ってひん曲がった眼鏡を一所懸命直していた。
女の人が、鼻血が出ていることを伝えると、男の人は持っていた鞄の中からティッシュを探し出して鼻を拭くのだが、拭けば拭くほど鼻血は止まらない、鼻を押さえるのだと言っても耳が遠いようで聞こえない。近くの家から男の人が出てきて、様子を聞くとティッシュの箱とタオルを持ってきてくれた。
立ち上がれるかと聞くとどうも立ち上がれそうもない。救急車を呼ぼうかと聞くと家の奥さんを呼んでくれと言うので、探し出した携帯電話に貼ってある電話番号に電話をして、奥さんを呼んだ。
そこに、すぐ前の家に住んでいる男の人が出てきて、様子を聞き、心配だから救急車を呼んだほうが良いとすぐに電話をかけてくれた。
救急車は、3〜5分で到着したが、まだ奥さんは見えない。三人の救急隊員が男の人の様子を聞くと突然めまいがして倒れたとのこと。本人は、その時の様子は覚えていないようで、眼鏡が壊れているということは、顔を打っているのも記憶が無いようだった。
自分では起きられず二人の隊員が脇を支え力を貸して起き上がらせたが、これでは奥さんが来てもどうしようもないので、救急車を呼んだのは正解だと思った。
一応、発見者の事情聴取は終わり、救急隊員とけが人は救急車の中に入ったので、私は当人の名前を聞いて奥さんの来そうな方向へと歩き、それらしい人に声を掛けることにした。
しばらく、歩くとそれらしい人が、こちらに歩いてくるのでOさんですか?と聞くと、そうだというので、急ぎ引き返して奥さんが来たことを救急隊員に伝えて、救急車の中に導いてもらった。
Oさんと奥さんと救急隊員が救急車の中に入って、後は病院搬送だけとなったので、そこに居た私含めて4人は解散することに!つい「ありがとうございました!」と3人にお礼を言ってしまった。
突然のけが人でも4人の見知らぬ人間が真剣に対応したことに、改めて日本人、日本の社会の良さを感じた日だった。
本考32 フィリップ・マーローの教える生き方 4.5.9
レイモンド・チャンドラー作品より 村上春樹 訳 マーティン・アッシャー 編
左:文庫 図書館で新刊で入ったこの本を借りるために前の人が返すのを待っていたところ1ヶ月以上返却がないので仕方なく借りたのが4年ほど前に出た右側の単行本だった。
図書館で借りることが出来るのは2週間だが、前に借りた人は明らかに1ヶ月半も返却しないので図書館の人も何回も連絡したが返却しないとのこと!困ったものだ。そして、右側の単行本を借りて読み終わった頃に文庫本は帰ってきた。
どうしてこういう人がいるのかが不思議だ。約束を守れない人には借りる権利を無くしたほうが良い。私も何回か遅延したことがあるが、気が付くと焦って返したものだが、こういう人はなんで平気なのだろうか?
さて、この二つの本の違いは、文庫と単行本の違いだけではない。もちろん単行本の方が装丁がしっかりしているだけではなく、左の文庫は右開きで、右の単行本は左開きである。ご存じの方は、もうおわかりだろうが、元の単行本は、英語版をそのまま訳した横書きであるのに対して、文庫本は、それを縦書きに直したものだからだ。
そのため、単行本の方は各項目も英語とその訳をつけても続けて編集しているのだが、文庫本の方は各項目だけで1ページを使っているので、ページ数も多くなっている。どちらの編集が好きで読みやすいかは、各人の好みに別れるところだが、私は和訳をしたもので原語を必要とするものは、単行本のように左開きの方がいいように感じる。 内容は、レイモンド・チャンドラー作の探偵フィリップ・マーローシリーズからマーティン・アッシャーの共感した文章を各項目にまとめたものなのだが、最後に村上春樹があとがきの後にマーティン・アッシャーが取り上げていない「高い窓」と「プレイバック」からの引用も載せている。
では、最後に私のお気に入りを取り上げて終わりとしよう・・・
LONELINESS 孤独
孤独な人間はいつもしゃべりすぎる。しゃべりすぎるか全然しゃべらないか、どちら
かだ。『リトル・シスター』
私は星と星とのあいだの空間のように、虚ろで空っぽだった。『ロング・グツドバイ』
VIEW 眺め
その家が視界から消えていくのを見ながら、私は不思議な気持ちを抱くことになった。
どう言えばいいのだろう。詩をひとつ書き上げ、とても出来の良い詩だったのだが、
それをなくしてしまい、思い出そうとしてもまるで思い出せないときのような気持ち
だった。『高い窓』
私もとてもよくできたと思った詩を思い出すことがことできなかったことが何度もある!
HARD 硬い心
「これほど厳しい心を持った人が、どうしてこれほど優しくなれるのかしら?」、彼女
は感心したように尋ねた。
「厳しい心を持たずに生きのびてはいけない。優しくなれないようなら、生きるに値
しない」『プレイバック』
最後の言葉は、私が最も好きな言葉で、私の記憶では「男は、強くなければ生きてはいけない。やさしくなければ生きている資格がない。」だったように思うのだが?訳の違いか私の記憶違いか定かではない。
本考31 跳ぶ男 青山文平 R4.5.5
「跳ぶ男」は、能によって国の立て直しに挑んだ男たちの物語だ。時代小説だが、そこに剣は出てこない。剣での勝負ではなく能による勝負を描いている。だから、能を知らない者のために解説が多くある。人によっては、読みにくいかも知れない。だが、読み取らないと最後の感動はない。
幼くして居場所をなくし孤独な少年が、流れる墓としての野宮と呼ばれる河原の石舞台で、能の稽古としてひたすら跳ぶ・・・そして、亡くなった幼い藩主の身代わりとなって能を舞うのだ。
私は、剣戟があり娯楽性のある時代小説が好きなのだが、これは別格で、武士の時代を背景にした剣戟以上の緊迫感のある物語である。心に響く生きざまを学んだように感じる。
筆者の『鬼はもとより』の中に「ふつうならばありえないことをやってこそ、『出口』は開く」とあるが、なるほどと思わせる作品である。
近くの散歩道も春の動きが5.1
左 オオミズアオ 右 通りのツツジもケヤキも伸びる!
オオミズアオは、ツツジにとまっているのを見付けたが、よく似ているオナガミズアオと区別がつかないが、特徴的に多分オオミズアオ!
小さな庭にも春?4.30
左 ハゴロモジャスミン 右 カリフォルニアライラック
久しぶりのアップ!4.4.4
ロシアのウクライナ侵攻から1ヶ月があっという間に経ち・・・でも何もしていなかったわけではなくて、ただアップしていなかっただけです。
まだ、未掲載のものもあるのですが、とりあえず一回アップ!
追加4.4.14
本考30 うめ婆行状記 宇江佐真理
この本は、宇江佐真理の遺作であるが、この本の主人公であるうめ婆は、病気で倒れ復活するのである。
癌と闘い、死と隣り合わせの状況にありながら、生きているうちは楽しく、でも死も悪いものではないと書いた作者の思いの込められた作品だとも言えよう。
主人公うめ婆は、酢・醤油問屋から北町奉行所同心に嫁いで三十年、二男二女を生み、夫が卒中で急逝し、最後まで家に残っていた次男を婿養子に出し、妻と母の役割を終えたうめが、夫の死を切っ掛けに、若い頃から老後は独り暮らしをしたいという夢に向かって動き出してからの顛末を描いたものである。
この物語は、前に書いた『髪結い伊三次捕物余話』などの探偵ものとは違い、親子の絆、家族の温もり、地域共同体の絆、そして「人にとって幸福とは何か」など、宇江佐さんが追い求めたテーマに焦点化されているので事件らしい事件は起こらない。しかし、時代劇でありながら、今でも起こりうる現実的なシーンの中で、自分なりの幸せを見つけ出そうとする主人公の生きざまは、考えさせられるものがある。
うめが、「人が生まれ、亡くなり、また生まれる。こうして人の世は続いて行くのだ。」と考えるように、私たちも死を怖れることはない。それよりも今を充実させ、楽しく生き、続く世に少しでも良いものをつないでいきたい。そう思わせる作品だと感じた。
本考29 あなたのための短歌集 木下龍也 より
この本は、歌人の木下龍也が、お題をもらって、それに短歌で応えるという方法で送った短歌の中から掲載可300数首から選ばれた短歌を本にしたものだ。
まずは、表紙に書かれたお題と短歌を・・・
「まっすぐ生きたい。それだけを願っているのになかなかそうできません。まっすぐに生きられる短歌をお願いします。」
「まっすぐ」の文字のどれもが持っているカーブが日々にあったっていい
後は、気に入った短歌を・・・
大きさも深さも違う花瓶にはそれぞれ似合う一輪がある
燃えているようで溺れているようであなたのキスは魔法でしたね
あなたの死ではなくあなたの恋の死をあなたの声で聞けてよかった
風化ではなく風景になったのだ。あの日の彼もあなたも遠く。
かなしみは寒がりだからすぐきみの胸の暖炉に集まるんだね
きみがいまつまずきながら描いている地図は未来でだれかを救う
アイデアは恥ずかしがり屋さんだからひとりの夜にふと降りてくる
本考28 「マリー・キュリーが考えたこと」高木仁三郎 より
後半、マリー・キュリーと高木仁三郎が会話をしているように書かれている。
その中から・・・人間はついに最終的な兵器、自分たち自身をも皆殺しにできる兵器を手にしてしまった。しかも、その発端は私たちの仕事にあったのかもしれないのですから。
実は、私もそのとき考えたのは、ピエールの言葉だったのです。少し言い変えていえば、「人間は核兵器をもったり原子力を使いこなせるほどに成熟していないのではないか」と。(中略)
どうも最近の状況をみていると、「人間は核や先端技術を人間の幸福のために使いこなせるほど成熟しているのだろうか」と、ピエールのように問うてみざるをえないのです。そのとき、いまの私にはピエールのように自信をもって、「人間は新しい発見から、悪よりも、むしろより多くの善を引き出す」といつも言えるかどうか、疑問に思うのです。
とくに、あの、第二のいたましい核の惨事が起こってからというものは……
確実に春はやってくる
散歩中に見付けた春 昨年も咲いてたシロバナタンポポとつくし
3月13日姫こぶしの花が咲く 3月20日には満開
ウクライナそしてロシアにも春を!
茫然自失!4.3.11
ロシアのウクライナ侵攻で、2月の終わりにアップするのを忘れてしまっていた。
この日に記載しようと思っていた内容を後日になりましたが、追記します。4.14
新聞コメント欄(切り抜いたものなので、いつのものか不明)より
〈強く優しい男の子。優しく強い女の子〉。
宮城県女川町の女川第一小学校の星圭校長が、『泣いた赤鬼』で知られる童話作家浜田広介の言葉を思い出したのは、ある女児の一言がきっかけだ
津波で八百人超の犠牲者を出し、建物の七割近くが全壊した女川町は、県内で最も早く学校を再開した。「子どものケアは、子ども同士のふれあいに勝るものはない。子どもが元気にならなければ、大人も元気になない」という考えからだ。
最初の朝礼で何を話せばいいのか。悩んだ星校長は、校木のヒマラヤスギと向き合った。校門近くまで津波は押し寄せたが、巨木はどっしりと構えていた。
なぜ、木は倒れなかったのだろう。そうだ。子どもたちに理由を考えてもらおう…。
校長が朝礼で質問すると、男児から「根っこがしっかり張っているから倒れなかった」と予想していた答えが返ってきた。
母と姉、祖母の行方がまだ分からなかった五年生の女児にも同じ質問をした。
数十秒の沈黙の後、答えが返ってきた。「何千人もの卒業生や多くの人たちに優しく、温かいまなざしで見つめられてきたから、負けなかったんだと思います」
優しいから強いという発想に、校長は感動し、言葉がなかったという。被災地がこの震災で受けた打撃は計り知れないが、優しさと強さを併せ持つ若者がいれば、東北の復興は見えてくる。
私は、宮城まり子さんの言葉を思い出した。「やさしくね!やさしくね!やさしいことは強いのよ!」
本当の復興は、いつになるのだろうか?復興を後押しする「やさしさ」はどこに!
本考 27 チェ・ゲバラのモーターサイクル南米旅行日記
丁度、この事件が始まる前に「チェ・ゲバラのモーターサイクル南米旅行日記」を読んでいた。皆さんもご存じのとおり、彼は、革命家として有名だが、元々は医学生であり、旅行を通して様々な体験から自分の考えや行動を形づくっていった。
最後に彼の演説が載っているが、最後の言葉を引用することにしよう。
われわれ医療労働者が、これをやり遂げることができるなら、連帯という新しい武器を使いこなし、目標を知っているなら、敵はもう分かっている。そして目指すべき方向が分かっていれば、あとは一日あたりどれだけこなしていけばよいのかを理解するのみだ。それだけは、誰かに教えてもらうわけにいかない。それは一人一人、それぞれの道のりだからだ。毎日のことであり、それぞれの経験からつかみ取るものであり、人びとの福祉に貢献する仕事をこなしていくうちにおのずと分かってくるものだからだ。
未来に向かって前進するための要素がすべてそろったところで、マルティのあの言葉を思い出してみよう。今このときには、私はその言葉を実践できていないが、常に実践すべきことだ。「言葉より行動で示せ」。さあ、キューバの未来に向かって突き進もう
さて、プーチンとの違いは!何処にあるかは歴然としている。彼らが革命で勝ち取った共産主義は、連帯だったのに、今では独裁へと形を変えてしまった。そうして歴史は繰り返していくのかも知れないが、地球を滅亡させるようにだけはなって欲しくない。私のように力も無い凡人には行動することも出来ずに、ただ祈るだけなのだろうか?
サンドバーグのシカゴ詩集より
「戦争」
昔の戦争では馬蹄の響きと軍靴の足音。
今日の戦争ではモーターの捻りとゴムタイヤの騒音。
未来の戦争では人間の頭で夢想だにされなかった無音の車輪と棒の擦過。
昔の戦争では短い剣の打合いと槍で顔面を突き刺す。
今日の戦争では長距離砲と障壁の破壊、大砲が金属の砕片を降らせて、十人二十人が一度に倒れる。
未来の戦争では人間の頭で夢想だにされなかった無音の死、無音の投弾器。
昔の戦争では王と王の争い、それに従う数千の家来。
今日の戦争では王と王の争い、それに従う数百万の人々。
未来の戦争では王は砂塵の下に蹴倒されてから、人間の頭で夢想だにされなかった大きな主義に従う数百万。
「道とその終り」
ぼくは歩いていくだろう
たそがれの道路を、
飢餓の影がさまよい
苦痛の逃亡者が通るところ。
ぼくは歩いていくだろう
朝の静寂の中を、
夜が明け方へとつづき移るのを見、
ゆるやかな颯々たる風が立つのを聞くだろう、
丈高い樹々が行手にならんで
大空にむかって肩を突き上げているところに。
路傍の砕けた丸石は
ぼくの滅亡を記念することはない。
後悔はぼくの踏む砂利石に帰する。
ぼくは待ちかまえて仰ぐだろう
風と雷雲が相結んで
荒々しい雨の行進を駆りたてるところを掠める
飛翔の早いほっそりとした鳥のむれを。
歩いていく道路の埃は
ぼくの顔と手に触れるだろう。
R4.2.24 ロシアのウクライナ侵攻を知り、茫然自失になる。
その時に浮かんだ詩・・・高田敏子さんの「夕焼け」
夕焼け
夕焼けは
ばら色
世界が平和なら
どこの国から見ても
どこの町から見ても
夕焼けは
ばら色
夕焼けが
火の色に
血の色に
見えることなど
ありませんように。
本考26 1月からの読書について
先月「わたしのなつかしい一冊」という本を読んだ。というのは、様々な分野で活躍している人たちがどんな本を読んでいるか知りたかったのと、私も読んだことの無い本を読んでみたかったからだ。
今月は、その本に載っている本の中から書評が良くて読んだことの無い本を図書館で借りて読んだ。図書館になくて読んでみたい本は、購入したが積ん読になっている。
では、その中から少しずつ紹介して行くことにしましょう。・・・と、ここから1週間ほどかかっています(笑)
@リチャード・ブローティガン詩集より・・・’22.2.22
階段のように無感情に
階段のように無感情で、
階段のように糞真面目なので、
二人がお互いの存在に気づくのに数年間
見つめつづけることが必要だったのさ。
掘ったばかりの墓穴のように妙に若々しく
掘ったばかりの墓穴のように妙に若々しく
一日が独楽のように回りながら進んでいく、
影の部分に雨を降らせながら。
万事休す
ぼくは心をこめてこんにちはといった、
だけど彼女はもっと心をこめて
さようならといったのさ。
次回と言っているとなかなかできないことがわかった。
「今やらないことは、十年たってもできない」を実践しているようなものだ。
やはり、読み終わったら少しでも良いから書くべきなのだ!
ということで、読み終わった本を・・・
A「君を乗せる舟」髪結い伊三次捕物余話 宇江佐真理
髪結い伊三次捕物余話シリーズの第6巻である。
私は、時代小説はやはり剣を交えるところが好きだったので、女性の作者のものよりは男性作者の本を多く読んでいた。
しかし、このシリーズでは、時代物というと表だったチャンバラばかりではないと気づかされた。主人公も髪結いをしながら岡っ引きの下働きをするという設定だから初めはどんなものかと思っていたのだが、回を重ねるにつれて作者も成長したのではないかと感じさせる物語になった。
心情ものの表現は、女性が秀でているとも感じた。特にこのシリーズでは捕り物もあるんだが、その周りにいる主人公たちの人と人との心のふれあいがよく表現されているので、心が動かされる。
特に、この第6巻は、感銘が深いのは、親になった伊三次の心が親としての感覚になっていき、また違う目で周りの人々を見るようになっているからだと思う。
その中でも表題の言葉は、龍之介から元服して見習い同心になった龍之進を取り巻く人間たち、移りゆく心・・・思うようにはならない14歳のほろ苦い思いを描いていて感じ入る。
なぜ「君を乗せる舟」という題がついたのか知りたい人は、読んでみたください。
最後に、一番最後の文に伊三次の思いがこめられている。「西の空は茜色に染まっていた。歩き出した龍之進の顔にも夕日が射す。未来は途方もなく遠い時間ではなく、いづれ確実に訪れる時間なのだと、伊三次は改めて思うのだった。」
さて、私たち、いや日本に、いや世界に、確実に訪れる未来は、果たしてどんな未来なのだろうか?私は、それを見守ることしかできないのだろうか?
本考25 今日は誰にも愛されたかった 4.2.9
昨年読んだ「天才による凡人のための短歌教室」を書いた木下龍也の本が同じナナロク社から出版されていたので図書館で借りて読んだが、何だか返してしまうのがもったいなくて買ってしまった。
この本は、谷川俊太郎と岡野大嗣と木下龍也の3人の詩人と歌人が「今日は誰にも愛されたかった」という題で書いた連詩を本にしたものだ。
連詩の後に「感想戦」として連詩について語り合った三人の記録があり、その後に名前を抜いた連詩が載っているが、全く一篇の詩である。
最後は、2人の歌人がエッセイを書き、あとがきを谷川俊太郎が書いている。
初めの所に谷川俊太郎の「詩について」という文章が載っているので紹介しよう。あとは、自分で読んでみて欲しい。
ぼくは言葉になった詩(ポエム)と、言葉にならない詩(ポエジー)を、混同して考えないように注意している。ポエムの元のポエジーは生きものの体内に存在していて、入間だけがそれを言葉にするが、ポエジーがポエムを生むこともあるし、ポエムがポエジーを生むこともある。
ポエムは言語の一形式だから客観が可能だが、ポエジーは形がないから個人の主観に拠るしかない。いずれにしろ詩は散文と違って明示性(denotation)のみを目指さない。むしろ含意(connotation)を主要な武器とする。詩のそういう特質から言って、詩を語る上で言語の多様性を避けるわけにはいかないから、必然的に文は曖昧にならざるを得ない。
曹洞宗のお寺の掲示板に張り出している言葉が・・・4.1.31
散歩途中に見かけるお寺の掲示板!毎回考えさせられる!!!
先月は、「孤獨ト 孤立ハ チガウ 頑固ト 偏屈ハ チガウ」だった。
調べてみると、孤獨とは「助けを得ることができずに、独り切りに離された状態に置かれること」であり「志や考え方などが同じ人や精神的なつながりのある人が自分の近くにいなくて1人になること」で、孤立とは「他から離れて1つあるいは1人だけであること」であり「人間関係から離れて助けもなく1人だけ存在すること」ということになるそうだ。
同じように頑固とは「一つは、自分の考え・主張・態度などを簡単には変えようとしないさまで、もう一つの意味は、簡単には取れないこと」であり、「簡単には考えや態度を変えない、簡単には取れない」という意味で使用するそうで、偏屈とは「性質や考えなどが偏っていて、素直でないひねくれているさま」を表していて、主に人間に使われるそうだ。
なるほど、言葉は少し違うだけで意味が違う。漢字は、意味を持っているんだと改めて思う。
今月は、「明日がわからないから 希望と祈りがある」だったが、わかったらつまらないだろうと思う。わからないから楽しみがあるのだと思うのだが・・・!
別の掲示板に「今やらないことは 十年たっても出来ない」とあった。 確かに、今やらないといけないことが沢山あるんだけれど、なかなか出来ない私!あと10年生きているかどうかわからないから、今やらなくっちゃ〜いけないなぁ〜!(笑)
航空公園散歩2 4.1.17
ロウバイがが咲いている。5分咲きか?
雪の日のメジロ 4.1.6
久しぶりの雪模様の中でもメジロはミカンを食べに来た。
雪の降り始めは、不思議そうに周りを見回し、雪が何かを確認していた。
ミカンが雪に埋もれてしまうと仕方なく引き上げていったが、いったい何処に住んでいるのだろうか?