本考3 時代小説を読んできて 19.8.18
もう何十年も読み続けている時代小説
初めて読んだのは、小学校時代に読んだ吉川英治の宮本武蔵だ。父親が大好きだったので、山手樹一郎や司馬遼太郎など家に一杯置いてあったから片っ端から読んだ。
吉川英治の宮本武蔵を読んだのをきっかけに三国志も6年生の夏休みに読んだ。これは、書き方も古く、漢字も難しいものが多かったので、初めは辞書を引きながらやっと1ページ読んだ。そのうち大体のつながりがわかるようになると、前後の脈絡でわからない字を飛ばして読んだ。
結局、夏休み中には第1巻しか読めず、読み終わるのに2学期いっぱいかかったように思う。夏休みを通して読んだおかげで、国語の授業がよくわかるようになったのは面白かった。
勤務中は、通勤の往復電車の中で読んだ!
教員時代は、勉強のため教育書しか読まなかったから通勤中は新書か文庫を読み、家ではそれ以外の持ち運びにくいものを読んだ。
管理職になると経営の本が交ざり、主に読むものは、教育書と経営書となった。
校長になると通勤中は、時代小説の中でも漫画のように読みきりで痛快なものを読んだ。
少し屈託があるときでも気分転換にとても良いからだ。初めは、藤沢周平や山本周五郎などから昔の名作を読んだが、だんだんと書き下ろしの佐伯泰英や上田英人のものをよく読むようになった。長谷川卓や山本一力、乙川優三郎も味があって好きだ。
今は、辻堂魁の風の市兵衛シリーズを読んでいる。
「銀花」より一節を・・・生き方を聞かれて市兵衛が答える
「わたしは、無用の者です。しかしながら、夥(おびただ)しい無用によって用は支えられていると、わたしには思えてならないのです。剣術にも、学問にも、商いにも、米作りにも、酒造りにも、雨や風や雪や、乾きや飢えや、喜びや苦難や、わが叫びやため息にすら、私にはわけがあります。そして、用があります。その用を語るにはわたしの言葉では足りず、道理には収まりきらず、ただ、わたしはそれらに真っ直ぐ向かうのみなのです。ゆえに、無用の者である自分を、悔やんだことはありません。」と・・・
確かに私もいつ死んでも顧みられない無用な人間なのだ。だからこそ、用を支えることをいとわず、生きていかねばならぬと思うのだが・・・
辻堂魁の「介錯人」「介錯人別所龍玄始末」は、またそれを上回って面白かったので続編を期待している。
退職後は、夜寝る前に、少し中身のあるものも混ぜて読んできた。だから、相当数の時代小説を読破してきたと言っても良い?好みが偏っているからなんとも言えないが(笑)
時代小説も中身が濃くて馬鹿にできない。
平岩弓枝の御宿かわせみシリーズは、短編ものなので毎夜1話ずつ読んだ。
図書館で借りて読んだのだが、平岩弓枝の本は時代小説コーナーにはなく普通の小説のコーナーにある。
そういえば、山本一力や乙川優三郎も一般図書の中にある、やはり多くの賞に輝いていると時代小説から格上になるのだろうか?
では、平岩弓枝の御宿かわせみシリーズの中から一節を紹介しよう。「かくれんぼ」の中の「江戸の節分」から
いわゆるネズミ講でだまされた母親が死ぬ覚悟で江戸に出てきて「かわせみ」に泊まる。何とか助けてが、子供たちを代表して迎えに来た夫婦と泣きながらの対面をするのだが、その時に主人公の東吾が言う。
「長年、貯えた金を欺しとられたのは口惜しいだろう。娘達に老後の厄介をかけるのも心苦しいと思った、その気持は俺にもわかる。
ほんのちょっと欲を出した自分の愚かさがくやまれてならないだろう。そのために無一文になっちまった。
だが、あんたは女手で四人もの娘を育て上げたんだ。話を聞いているだけで、みんないい娘だってことがよくわかる。おまけにみんないい御亭主と夫婦になっているようだ。
あんた、無一文なんかじゃない。四人の娘と四人の聟と、大変な財産を持っているじゃないか。
誰が作ったんでもない、みんな、あんたが作り出した、かけがえのない財産だろうが……もしもその一人を失ったら……こいつは金じゃ買えない。なくしたのが金で、本当によかったと俺は思うが、それでも、あんた、死にたいと思うのか」
るい(東吾の妻でかわせみの女主人)も言う。
「死ぬことなんかありませんよ。人間、生きていれば、必ず人様のお役に立つもんです。親だったら、まず、生きてる限り、娘の役に立ちたい、誰だって、そう考えるんじゃありませんか」
おかねが泣き濡れた顔を上げた。
言葉はなく、ただ、両手を合せ、東吾に、るいに、そして娘夫婦に深く頭を下げ続ける。
「よせやい。婆さん、俺達は仏様じゃねえんだぞ」
東吾の明るい声で、母親と娘夫婦の表情がほっとゆるんだ。
この話を読んで、気が楽になる親もあるんじゃあないかと思ってしまうのは、やっぱり歳のせいだろうか?
本考2 向田邦子「霊長類ヒト科動物図鑑」を読んで 7/25
向田邦子という人は、天才だと思う。この本には、自分を含め多くの人間の記録が書かれてあり、まるで、人の観察記録みたいである。
こういう観察能力があるから放送作家として多くのシナリオを書けたのだろう。残念ながら昭和56年8月に航空機事故で急逝。この本の中でも「ヒコーキ」という題でその恐さを書いているが、何だか予感のようなものがあったのかと感じてしまう。最後に・・・おもちゃ屋のガラス戸に、「ヒーコキあります」と書いてあるのを見たことがあります。・・・と結んであるのも恐さを紛らわすことのようで、とても悲しい。
この人が私と同じ場所に住んでいた時期があり、私の母親と2つ違いで多分同じ女子校に通っていたのだろうと思うと感慨もまたひとしおだった。
「良寛さま」という話の中に円空を話題にして「円は、丸い、銭の百倍・・・」とあったのでさらに自分の子供時代を思い出した。若い人にはちんぷんかんぷんだろうが、私が子供の頃にはまだ使っていたお金の単位だ。といっても何銭という単位ではなく、それも駄菓子屋で何十銭という単位で使っていたと思う。小学校時代に銭という単位を使うことは無くなったが、何だかとても懐かしい気持ちになった。
「白い絵」という話の中に、せっかくスペインへゴヤの絵を観に行ったら「裸のマヤ」は日本での展覧会に貸し出し中で壁の白く空いた部分にハポンと書いた紙が貼ってあったのは笑えたが、最後の一節がまた秀逸だったので引用する。
「裸のマヤ」というとそこだけ白くなった壁面と「ハポン」の文字が云々と書いたが、これは正確ではないことに気がついた。
いまプラド美術館を思い出すと壁にはちゃんと「裸のマヤ」の絵がかかっている。見たはずのないあの絵を知らない間に壁にかけてしまっている。
歳月は、思い出の中に、記憶をパッチワークみたいにはめこんでしまうのである。
私も思い出の中に、記憶をパッチワークみたいにはめこんでしまっていることが多くなってきたように感じている。
久しぶりに学校に行きました
5/17 学校に行ったといっても孫を送って行ったのです。
今日は、孫の学校で自転車交通教室があるというので、孫が自転車を持って行くことになっていたからです。
集団登校に一緒について行くと歩道を歩くとき右側を歩いています。
歩道が車道の左側にあったのですが、その場合なるべく車道から離れた左側を歩くべきで、子供というのは真面目だなあ〜!と思いました。
思い出したのは、新卒の先生が引率の時よく間違いをしていたことです。
遠足や社会科見学などの引率で、指導しておかないと歩道も車道側の右側を歩きます。
もちろん注意して直すのですが、そのような引率の基本というべきセオリーがあります。
例えば、集合ですがハンドサインで列の並び方を決めておき、状況によってはすぐに並び替えられるようにしておきます。
その上で、なるべく人の通りに邪魔にならないような場所を見付けて集合します。
交差点では、少し車道から離れ、待機スペースがあれば少しでも車道から離すようにします。
信号待ちで列が分断されてしまったら、必ず安全なところで一緒になるように考えて待ちます。
階段も必ず指定された登り階段の端を上ります。なければ右側の端です。
エレベーターがあっても安全のため階段を上ります。
エレベーターだけの場合もあるので、その時は左側に寄って乗ります。(本当は2列でも良いのですが、使っている人のことを考えて1列にします。)
必ず、上り終わったら立ち止まらないようにします。(詰まると倒れて危険なので)
そして、私は引率責任者として階段でもエレベーターでも上りは必ず一番最後尾につきます。
下りるときは、一番前を行きます。(何かあったとき自分が下敷きになっても子供を守るためです。)
特別支援学級でこのような集団歩行を日常的に訓練しておくと、いざ校外学習というときに役立ちます。
訓練という言葉を嫌がる人もいますが、実際にはどの子供でも安全のための訓練は必要です。
ましてや何回も繰り返すことで身に付けておくことは、自分の命を守ることになるからです。
実際に、移動の時が一番危ないことが多くありますから、まず集団行動での規律が守られていることが大前提だということを忘れないことです。
事故が起きてしまってからでは遅いのですから。
最期に教員の立ち位置の話を!
様々な場面で子供の安全を守るためには、教員の正しい立ち位置が大事です。
水泳指導での事故などは、この立ち位置で防げることが多いのです。
常に全体を見られる位置のプールサイドに必ず一人居て、後の2人はその一人が見えにくいところをカバーします。
もちろん指導する場面もあるのですからその場合は、必ず分担をはっきりさせ、長く水の中にいる時間が無いよう短い時間で指導します。
遠足や社会科見学での活動場所でも教員の立ち位置は大事です。
よく何のために実踏に行ってきたのかわからない場面に出くわします。
あるとき社会科見学で東秩父の和紙工房に行ったときのことです。
大体が、冬の時期に行くもので、池の水が凍っています。
ですから、私は必ずその池の脇にある古家に居ることにします。
すると、別の学校の子供たちが見学に来て、引率の先生方は全員休憩所で休憩しているのです。
大丈夫かな〜!と思っていると、そこの学校の子供が池に落ちました。
池に張った氷の上に乗ろうとして氷が割れてびしょ濡れです。
楽しい経験とも言えますが、子供によっては風邪を引いたりショックを受けたり可哀想な経験になってしまうことも多いのです。
私は、念のため着替え一式を持って行きましたが、万が一の場合を考えての配慮が必要な場合があるのです。
子供たちに安全を配慮しながらも冒険心をかき立て、挑戦する楽しさを味わわせることも必要です。
安全ばかり考えて何もさせないようでは逆に自分で自分の身を守ることができなくなってしまいます。
そのようなときは必ず先行し、安全を確かめてから行わせます。もちろん、全責任を負うことになるのですが!
十分な配慮の元、引率のセオリーを着実に実行した上で自由な活動をさせたいものです。
器械運動部の後輩「宮坂くん」を偲んで
平成31年4月22日(月)
後輩のK氏よりメールで訃報連絡が来ました。
もう30年も昔になってしまいますが、東京都小学校体育研究会器械運動部で一緒に活動した「宮坂君」が亡くなりました。
彼の実証授業を観に行ったことを思い出します。
いつも笑顔が絶えず、人のつながりを結んだり広げたりすることが上手でした。
その裏にはきっと、いつも気遣いがあったのだろうと思います。
わかったことは、亡くなったことだけで、葬儀等もわからないとのこと!
以下のように、返信をしました。
連絡ありがとう!
そりゃ〜、また残念としか言いようがないね〜!
もう遅いけど、あいつと会って話したかったな〜
結局、死んだら何も残らずに、生きている人の心にだけ死んだ人は残るんだな!
私が死んだら、それも残らなくなるから、どれだけ残っているものがあるかが、私の生きてる証ってことになるのかな?
宮坂は、若いときのまま確実に私の中に残っている。
だから、また会いたかったのが唯一の悔いになる。
やっぱ、何でも早くやっとこ!(笑)
Kさんもお元気でご活躍ください。子供たちを生かし、自分の心の中にも子供たちを生かして!
チャラいように見えますが、私の今の気持ちです。
ご冥福をお祈りいたします
君の笑顔は、まだ私の中に残っているよ!
ありがとう!
本考1 向田邦子エッセイ「夜中の薔薇」を読んで
「女を斬るな狐を斬れ(男のやさしさ考)」の中に菊池寛の講演を聴いた話がありました。
「人を批評したり判断する時には欠点を先に言いなさい。あの人は人は好いがだらしがない、というとだらしがない人ということになってしまう。しかし、だらしがないが好い人だと考えれば世の中は楽しくなります。」という話が教訓で残っているというものでした。
このことで思い出したのは、私が教員の頃、その時の校長先生だった木下信輔先生が言った言葉でした。通知表の所見欄を読んで「悪いことは先に書き、好いことを後に書く方が、読み手によい印象が残る。」と言われたのです。実に、子供のことを思った考えではないかと感心し、それ以降はそのことを頭に入れて所見を書いたことを思い出しました。
「分身」
母猫は、子猫が自分の乳を飲んでいる間は、実にまめまめしく下の世話をする。三週間ほどで子猫が乳離れすると世話をしなくなる。
このはなしをしたら、人間の子供と同じだといった人がいた。生まれてすぐは自分と同じで、少しも汚くない。歳月と共に他人になってゆくという。・・・なるほど!
「食らわんか」 様々な食べ物の話題 「早いが取柄手抜き風」も同様に食べ物・・・同じ感覚だ!
「手袋をさがす」・・・共感する部分が多い
そして−−−私は決めたのです。反省するのをやめにしよう−−−と。・・・そだね〜!
「時計なんか恐くない」(一部抜粋)
三年五年を、無駄に過ごしたとしても、六十年七十年の人生にとって、引っかき傷ほどにもなりません。
私は、どちらかといえば負け犬が好きです。
人も犬も、一度ぐらい相手に食いつかれ、負けたことのある方が、思いやりがあって好きです。
時にしてもおなじです。
一時間単位、二時間単位で時間を使ったといっても、それはせいぜい、時計を有効に使ったということにすぎません。
人間は、時計を発明した瞬間から、能率的にはなりましたが、同時に「時計の奴隷」になり下がったようにも思います。
時計は、絶対ではありません。
人間のつくったかりそめの約束です。
もっと大きな、「人生」「一生」という目に見えない大時計で、自分だけの時を計ってもいいのではないでしょうか。
若い時の、「ああ、今日一日、無駄にしてしまった」という絶望は、人生の大時計で計れば、ほんの一秒ほどの、素敵な時間です。
恐れと、むなしさを知らず、得意になって生きるより、それはずっとすばらしいことに思います。
どんな毎日にも、生きている限り「無駄」はないと思います。「焦り」「後悔」も、人間の貴重な栄養です。いつの日かそれが、「無駄」にならず「こやし」になる日が、「あか」にならず「こく」になる日が、必ずあると思います。真剣に暮らしてさえいれば−−−です。
この話を読んで思い出すのは、校長の時に話し合った保護者のことです。
@4年生のクラスで男の子が荒れているとき女の子の親が「子供にとって大事な時期ですからなんとかしてください」と言われました。本当にそうなんです。学校では毎日子供のその時を大切にしようと頑張ってきたのですが、なかなか解決はできませんでした。でもこの文章を読むと救われますね。私もその時は、そう思うしかなかったのでした。同時に、指導法を徹底できなかった責任を今でも感じています。
A受験だけを考えて、子供を学校に来させないで家で受験勉強させている親がいました。私が「子供にとって一生に一度しかない大事な時期ですから、どうか学校に来させてください。」というと、その親は「中学受験も一生に一度しかない。」と、けんもほろろ!(意味が違うんだけど!)
そこで、仕方なく出席していないと中学で問題になると話し、週に一回でも登校させることを約束させたのです。そうしないと本人の健康や安全を確認できないからでした。
この子は、1年生の時興奮すると友達に乱暴を働いたり物を投げたりする子でした。あるとき担任が呼びに来て、体育をするために体育館に行くのだがその子がトラブルを起こして興奮して暴れているというのです。
私は、他の子を連れて体育館に行くように担任に話し、教室に一人で居させることにしました。 もちろん、交代で見ていることにしましたが、初めの頃教科書を机にばんばんとたたきつけていましたが、15分くらいしたら気持ちが収まったのか、一人で体育館に行きました。私も体育館に見に行きました。そうしたら、彼は見学の子供と一緒におとなしく?話しかけていましたが、見学していました。
こういう子は、自己解決能力を身に付けさせることが大切だということがはっきりしたので、その後何かあったら相手にしないで心配だったらすぐに私を呼ぶように担任に指示しました。
中・高学年になると話ができるようになり、よい担任だったのでその子とよい関係ができたので「タイムアウト」という手法をとることにしました。その子の気持ちを聞き、興奮したときは一人にすることにしたのです。初めは完全に教室から離し、次第に教室の後ろに置いた机に座らせるようにしました。そうしたら高学年になって興奮することがわかると自分から一人になることができるようになったのです。
そんな彼が、中学受験でまた自分を失うようになっては困ると思ったのです。
その子も寄宿制の名門中学に入りましたが、トラブルをたびたび起こしたという情報が入りました。
その子に妹が居たのですが、その妹の卒業を祝う感謝の会に迎えに来たとき会った時、私は、その子の顔を見たとたん抱きついて涙を流してしまいました。子供の成長を感じたときでした。
2014.7.2読売新聞の記事より
ここのところ資料の整理に追われてなかなかHPの更新ができずに申し訳ありませんでした。
しかし、資料を整理していたら2014.7.2読売新聞の記事が見付かったのでそれもまたラッキー。
来日した経済協力開発機構(OECD)のアンドレアス・シュライヒャー教育局長に、日本の教育制度の評価と今後の課題を聞いたもので、私の考えを含めて紹介します。
彼は、「ゆとり教育」を評価している。そして、教育政策全体を見ると、優先順位が違っているとも言っている。
その違いとは、「少人数学級を精力的に進めているが、教員の質の向上にはあまり予算が割かれていない」という点だ。
彼は、「教員の質は、学級の規模よりも重要だ。」と言う。
私もその点では同感だ。
少人数学級にするより、学校における教員の人数を増やし学級担任以外の教員を活用することによって教員の質を高めたり学校の諸々の問題解決に当たらせたりするべきだ。
PISAでは生徒の自信がきわめて低い。日本の教員も同じで良い評価が足りないためだ。とも言う。
もっと研修に教育資源を投下していいとの意見だ。
インタビューの最後に、「教育とは何か」という根源的な問いを投げかけると、「人間性を向上させることだ」という答えが即座に返ってきた。
このことを忘れての教育はないと私も思う。
原文はPDFで2014.7.2読売新聞の記事より
2019.1〜2月
平成31年始まる!と言ってもあと4ヶ月
12月と1月は、本編の「神谷誠一の体育教育研究」の作成で忙しく、ブログはお休み!
そこで、2月からで申し訳ありませんが、また再開。
第1回豊島区小中連携研究発表会に行く
毎年、豊島区小学校教育研究会が行っていた総合研究発表会が、小中連携となって初めての発表会
実は、私が9年前に研究会長をやっていたときに予定までしていたのに中学の都合がつかずに流れてしまったことがあり、どうなるか見に行きました。
今回は、教育委員会主導のようで、なんとか全体会では小・中共に発表。
小学校は、算数、中学校は、英語・・・まあ無難なところでしょうか!
そして、分科会では小学校の7部会の発表討議に中学校の教師が参加してという形で行われました。
私は、当然のように体育部会の発表に出ましたが、その時の障害走の指導について参考までに載せておきます。
障害走の指導PDF
兵庫の4城廻り2泊3日
今回は、兵庫県に2泊2.5日の城廻
9日?は、行くだけだったが、丁度雪が激しくなる予報が出て危ぶまれた。何とか10分遅れで東京駅を14:13出発し相生に到着。駅スタンプを押印し、18:12発(快速)北陸・東海道・山陽本線新快速に乗って@播州赤穂には時間通り18:23に到着。A
途中で「かましま(かき)」を予約しようと電話を入れるも予約は満杯で断念!
先にある赤穂城大手門近くの「一粋(いっすい)」で穴子重と牡蠣の天ぷらを食べ熱燗で一杯(あ、写真を撮るのを忘れた〜)B写真は夜の赤穂城大手門横の櫓
コンビニで明朝の朝食を買い宿舎「赤穂ロイヤルホテル」に行く。遅い時間だったので風呂に入って就寝
@A
B
C
D
10日?
朝食は、部屋で前日コンビニで準備したものを食べ、9:00ホテルに荷物を預け大石神社Cから赤穂城Dを回りホテルで荷物を受け取り駅まで歩いていく。
途中に「あこうパン」というパン屋さんがあったので寄ってみると駐車場は空き待ちで、中に入ると人でいっぱい!「腹ぺこ青虫パン?E」と「幸せのあこうパン」「あこうクリームパン」を買い明朝の朝食に(笑)
播州赤穂駅Fで駅スタンプを押し、播州赤穂11:09発のJR赤穂線・姫路行で姫路へ。
姫路に着いたのが11:41だったので、駅スタンプを押してからまずは「灘菊かっぱ亭」Gへ。ここは酒蔵の直営店で有名のなので寒さにこらえ外で並んで待つ。カウンターに座り、白と黒のおでんで一杯(灘菊熱燗)HI
EF
G
H
I
姫路城Jへは前回来たときにスタンプ帳を忘れたので中には入らず入り口横の案内所でスタンプ押印のみ(笑)すぐに引き返して城の交差点を渡ったところにあるたまご屋で玉子焼き(これは本当の厚焼き玉子)を買い、その先に前回来たときあった店「はりかい姫路城店」に入り、蒸し牡蠣と生牡蠣に奥播磨の熱燗で温まる。マンホールも姫路城K
次は、明石だ〜!姫路 13:27発JR神戸線新快速で明石へ!明石13:50到着。駅スタンプを押してから、まずは明石城Lへ。明石には23歳の時、車で友人に会いに来たが城には寄らなかったので、全くの初対面!
明石といえば明石焼き!明石焼きは、家がたこ焼き店をしていた頃「上たこ焼き」として出していたもので、天つゆのようなつゆに付けて食べる。有名店が並んでいるので、その中で空きがあった「よし川」という店Mで1人前15個600円の玉子焼き(明石では玉子焼きと言う)をビールで食す。記念のマンホールN(笑)
明石駅でスタンプ押印後、JR神戸線新快速で尼崎に行き駅スタンプを押印。そこからJR宝塚線で三田へ。ここでも駅スタンプを押して宿泊先のホテルメルクスへ!
遅い時間だったけどコンビニが近くにないので、朝食(バナナとヨーグルト)を買いにスーパーに入ったのだが、もう飲むのも満足しているので夕食代わりに刺身とサラダをつまみに買ってホテルでビールを飲みながら部屋飲みをすることに(笑)
姫路で買った玉子焼き半分とあこうパンを食べて満腹になり風呂入って就寝!
JK
L
M
N
11日?祝日
朝起きてカーテンを開けたらなんと雪が・・・!O
朝食は、前日購入したものや残り物を食べ、ホテルからガラガラを宅配で自宅に送ることに。持って行くのはいつもの肩掛け鞄とエコバッグ!
三田駅から篠山口まで快速で約30分。電車が途中で獣と接触したとのことで遅れた電車に乗れたのは良かったけど、篠山口駅に着いたら雪の中でバスを待つことに(泣)
バスを30分待つ間にマンホールの写真P、二階町まで乗ること15分!歩いて5分!着きましたよ篠山城??Q
篠山城は、天守閣のない城で入口にあるスタンプを押して写真を撮ったら近くにある大正ロマン館Rへ行き食事とお土産を買う。
ここで黒豆ビールSを飲もうと思ったらお土産でしか置いてなくて、買って帰ることにする。帰ってから飲んだら確かに黒豆の味がした。黒豆のジャムや黒豆甘納豆などを買い込み、早々にバス停に・・・ぎりぎりで間に合ったので新大阪での新幹線に間に合う電車に乗れた〜!結構、つめつめの城廻り旅行でした。(城??スタンプ4つゲット!)
OP
Q
R
S
いよいよ11月 さあ投稿開始?
11/3.4町会文化祭出品作品?といってもただの紙工作!

てなことしているもので、なかなか進まない。
でも、毎日少しずつ改訂しているのです。
大事なPDFの貼り付けもスムーズにできるようになったので、いよいよかな〜(笑)
「神谷誠一の体育教育研究」の資料に小学校学習指導要領体育科の学年別まとめもPDFで掲載!
でも、メインの教材研究と指導法研究については作成中m(_ _)m
11/16豊島区立要小学校研究発表会に行く
平成29・30年度豊島区教育委員会研究推進校
研究主題「こんな人になりたい」「こんな生き方をしたい」とともに考え、認め合う
〜考え、議論する道徳に向けた授業改善と評価の工夫〜
研究仮説 学校の教育活動全体を通して行う道徳教育の要となる道徳科の授業において、発問の工夫や、言語活動(話合いの工夫・書く活動の工夫)の充実を図れば、自他を大切にしながら主体的に行動し、よりよく生きようとする児童がそだつであろう。
という考えの元に「要スタイル(教材提示、発問、話し合い、書く活動の工夫)」と「評価」を中心に発表した。
発表時間も短くまとめられており、研究の深まりが感じられた。
講演は「聖徳大学大学院教職研究科教授 吉本恒幸 先生」
11/23〜25山形、米沢への旅行
1日目
大宮から山形まで新幹線で行く。トンネルを抜けたら雪景色
そこから仙山線で「山寺」へ
山寺駅を降り「宝珠山立石寺」に向かう
その後、山形駅に戻り、ホテルにチェックインしてから夕食を食べに出る。
そば処庄司屋での食事を紹介します。予約した蕎麦会席!
始めは、そば屋定番の突き出しとおひたし!
お酒は、五薫!そば屋の隠し酒を飲む
次は、地なめこおろし!
そして、そばがき!絶品です 続いて、いくらおろしのそば まだまだ、桜えびのかき揚げに地元野菜の天ぷら いよいよ、なめこそばが出て 終わりかと思ったら更科と田舎そばの合いもり! そばは、腰が強くて私の腰とは違うなぁ?(笑)
これで4320円(お酒は別)だから、山形に行ったら是非!
五薫も2合飲んで少し足りなかった(^_-)
2日目 11月24日(土)
(霞城公園)山形城跡@ → 山形市郷土館A → 二ノ丸東大手門B → 最上義満歴史館 専称寺 → 山形県郷土館「分翔館」C → 七日町御殿堰D → 山形まるごと館「紅の蔵」(昼食)
@A
B
C
D
山形市内を見学後、米沢へ移動
夜は、鷹山公で「はりはり鍋」を食す。酒は三種飲み比べ
3日目 11月25日(日)
上杉神社 松岬神社 米沢城址(松が岬公園)
2018.10月 いよいよホームページ「神谷誠一の体育教育研究」の作成
10/04 築地がラストになったというので最後の訪問に行くことに!
入り口も見納めか?昔よく行った中栄でインドカレーとビーフカレーの合い掛けと野菜スープを食べ、帰りに松村で削鰹節を買って帰った。中栄は、豊洲に移るというので新しい豊洲市場で食べることができると思うが、場外の松村はどうしたのかな?
10/20 その昔、世田谷区立城山小学校で3,4年生を担任していた頃の子供たち(といってももういい大人!)のクラス会に呼ばれて下北沢に行く!
早めに出て、下北沢の近くの代沢にある「邪宗門」という喫茶店に行くことに!
邪宗門は、学生の頃から10年以上通っていた喫茶店で、よく手品を練習していた。
その後、弟が修行させてもらい多摩に同名の店を出させてもらった。その弟が亡くなって7回忌が終わったので、その報告とお礼に寄った訳です。
右端の写真は、下北沢にあるa亭というラーメン屋!江戸っ子ラーメンがうまい!
下北沢に戻って、クラス会に参加(行くまでに大雨に降られてびちょびちょ)
いつまで経っても教え子は可愛いものです。昨年は、15名!今年は、6名参加。しおり(表裏) 左昨年、右今年
クラス会に来たメンバーに記念として渡したもの
毎年、クラス会を呼びかけて日程調整、会場設営までやってくれる酒匂君に感謝!
10/22 東京都小学校体育研究会器械運動系部会の授業研究会(台東区立蔵前小学校)に参加
私は、職を離れてからもう6年経っているので、なるべく知られないように、そっと参加しようと思っていたのですが、入口で早速後輩に見付かってしまいました。
名簿に名前と所属を書くのですが、所属は「なし」(笑)
その時受け取ったのは、何と指導案と資料集の他にマット運動例示技動画DVD付き!
まあ、部員が組織的に役割分担して作成したのだろうけど、すごい努力の後が見られて嬉しかった。
私の時は・・・?(器械運動領域部の歴史を書き残すいい機会かなあ!)
どんな時代だったかというと、私が小体研器械運動領域部(その当時は「系」などはない)に参加したのは、組織が大きくなり始めたので学年別組織から領域別組織に変わった時のこと!
参加した動機も学年主任で体育主任の故横山洋先生に連れられて行ったのが初めで、行ってみたら、私が青南小学校6年生時代の学年主任だった故岡野伊與次先生が幹部校長でいたからという単純な理由だったのです。(岡野先生は、次の年に会長になられた)
実際に集まった部員は、多賀部長と菅野副部長に内藤先輩と私の4人で、菅野先生がほとんど作成して発表というのが実態でした。(故菅野正文先生は、次の年に指導主事になる。)
次年度の総会では、前年度の部長・副部長がいなくなったので、集まった中での選出となり、中馬先生を部長に内藤先輩と私が副部長という体制でスタートしました。
部員も5〜10名程度は、仕事が終わってからでも集まるようになり、部会での実質上の研究が始まった年だといえるでしょう。
その時の私は、やっかいな部員だったようで、「ぶち壊しや」と呼ばれていたようです。
いつも、会での結論が出そうになると「研究主題に合っていない」との発言をしたもので、今までの話し合いが無になると・・・嫌がられていた?
でも、その思考は今でも変わらずに筋を通すことの大事さを忘れずにいます。それでないと研究ではないと思うからです。
その頃からしつこいぐらいに主張していたのが「感覚づくり」という考え方です。
今では、ポピュラーになり?器械運動領域部では当たり前のように使われていますが、私が言い始めなので、これだけでも貢献したんじゃないかと自己満足(笑)
あらあら!自己回顧に陥ってしまって困ったものです。
何せ年寄りなもので、失礼
10月中にはホームページを公開!といっておきながらなかなか整理がつかずに11月3日4日の町会文化祭に出そうとしている紙工作の仕上げにかかったためにまだ公開できず
2018.9月 映像の準備
ホームページを始めるため、ドメインを取りレンタルサーバーと契約して準備を始める。初めにやったことは、器械運動の技能分析のために色々な準備をすること。以前から使っている人形を使って場面を撮ることに・・・そうだ、跳び箱を作らなくちゃ?
そこで跳び箱を作ることに!
そうしたらこの人形じゃあこの跳び箱に対して大きすぎる。そこで子供の人形を購入して体育着を作って着せることに!そうしたらこの人形胴が90度までしか曲がらない(笑)
そこで跳び箱を1段増やすことに・・・100円ショップですのこを買って4段目を作るまあまあのできかな?そこで今度は大人の人形に体育着を作って着せ、写真を撮ることにした。
比較検討例のために写真を撮り、編集して1枚のプリントに作成。