令和7年が始まって、あっという間に時間が・・・

昨年末に愛猫つむぎが死んでしまい、やることを忘れてしまうことが多くなってしまうほどショックが尾を引いてしまっています。
今まで、つむぎのことは書かずにいたので、これから少しずつアップしようかと考えていたのに残念です。
それでも、日常は過ぎていきます。また心に残ったことを書いていきたいと思いますので、よろしくお願いします。

>11.8 奥泉光さんの講演会

町内にある(株)ヘルスという会社から町会内に講演会への招待があった。
創立記念講演ということで、所沢市民文化センターミューズで行われた。
以下、その内容だがメモを起こしたものなので、不十分なところが多々有りお許し願う。

 

(株)ヘルス第55期講演会
講演者 奥泉光先生<芥川賞作家>
演題 小説家は小説をどのように読むのか?一実践的文学論一
   奥泉光 1956年山形生まれ、所沢育ち。
所沢中学校、川越高校、国際基督教大学教養学部卒、同大学院博士前期課程修了。作家。
1993年『ノヴァーリスの引用』で野間文芸新人賞、瞠目反文学賞、1994年『石の来歴』で芥川賞、2009年『神器一軍艦「橿原」殺人事件』で野間文芸賞、2014年『東京自叙伝』で谷崎潤一郎賞、
2018年「雪の階』で毎日出版文化賞、柴田錬三郎賞を受賞。
主な作品に『バナールな現象』『「吾輩は猫である」殺人事件』rグランド・ミステリー」『新・地底旅行」『シューマンの指』『浪漫的な行軍の記録』『死神の棋譜』などがある。本年8月に大長編『虚史のリズム』が刊行される。現在芥川賞選考委員をつとめる。趣味でジャズフルートを吹く。

 

講演概要(メモから起こしたものですから正確ではないかもしれません。)文責神谷誠一
人は、それぞれ物語をもっている。例えば、父親は、父親という物語を生きている。それぞれ物語があるようふるまっている。ストーリーを認識して生きている。
 ネアンデルタール人は、能力が高いにもかかわらずホモサピエンスに滅ぼされた。ネアンデルタール人は、小集団しか形成できなかったが、ホモサピエンスは、物語を共有できたので虚構の物語で大集団を形成できたからだと考えられる。
 みんな物語を共有して生きている。夫婦、家族、日本人・・・共有できないことは危機である。美意識も物語が支えている。文化の中で共有している。外国人が木が紅葉したとき「木が枯れている」とパニックになった。このように別の物語をもっているとイメージが違う。
 歴史もまた物語でできている。1941年真珠湾攻撃で宣戦布告をしなかったことが問題になり、ワシントンの外務省の問題といわれていたが、実は海軍はそれをわかっていた。日本軍は、「同盟国のドイツが勝つ。アメリカ人は人種混合でやる気が無い。」などの物語を作った。
 小説は、そのような物語に対して、なぞると同時に批判・批評をする。くつがえす。泣ける物語を作るのは簡単で、あるパターンにはまると泣ける。今まで知らなかった感情を喚起するのが良い小説で流通しているものに批評を加えるところにある。
 人を動かす力は、何かというと「金:経済の力、暴力、言葉の力」。言葉の力とは、法律は言葉で書かれている言葉の外の力といえるが、言葉自体が支えている文学・物語に根拠はない。例えば人を動かすことを考えると「阪神ファンの人を巨人ファンに変える方法」を考えると、金100万〜1000万?暴力・・・心から動かせるのは物語。
 小説は、常識としてもっているイメージを批評する。自分にとって異質なもの、知らないこと、未知なこと+エンターテイメント性があるのが良い作品。私の書いた作品の9割はミステリーで、エンターテイメント性の中に文学を入れ込んでいる、だから、謎が解かれた時にはどうでもいいことになっている。
 文学とは、決まっていることに批評を入れること、違う世界を感じてもらうこと。
質疑応答より
・質問?=一部をスケープゴートする事によってみんなが同一性を確保する。(いじめなど)
・読書の仕方?=読書は、ゆっくり読んだ方が良い。良い曲は何度も聴くように1冊の本と付き合う。良い小説は部分も良い。
・感性がない、本を読まない人=本は、感情のないインクのシミに過ぎない。読者が小説を作り、1つの世界を立ち上げる。小説は、読者の経験の中で読者によって読まれる。

 

この講演から思ったこと(友人へのメールより)             神谷誠一
 奥泉さんの講演で思ったことは、まず夫婦の関係です。
 やはり、人間はそれぞれに物語を持って生きている?生きてきているかな?だから、度々意見や気持ちが食い違うのも仕方ないなと思いました。それを修復するのが「愛」の力なんですが、歳をとると昔とは違う生き方や考え方がそれぞれの物語を創ってしまうので、「愛」もズレたりブレたりすることが多くなってしまうみたいです。

 

 それと、この話を聞いて、すぐにアメリカのトランプの事を思いました。ナチスは、ユダヤ人をスケープゴートする事によって、ドイツ民族の同一性を確保することをねらいました。
 私は、トランプも移民や別人種などをスケープゴートする事によって自分を支援するアメリカ人の同一性をねらったと考えています。彼は、「移民者は、犬や猫を食べている」と演説していたように、うそ、でたらめを平気で言い続けて、人々を不安に落とし込みました。それを信じる人もいるんですから恐いですね。

 

 また、一財産作ったのですから、トランプは、人を動かす力も何だかわかっています。
「金:経済の力、暴力:強さ、言葉の力:相手を批判しおとしめる。人々の共感を煽る」
この3つはヒトラーも同じでしたが、トランプもそうですね。人間の弱さをよく知っていて自分のために活用するのです。
 経済政策も無策で、「関税」を高くして、自国の産業を守るです。誰でも、自国はもちろん大事ですが、他国との協調や協力が必要ですから、強いアメリカどころか人間としての弱いところをさらけ出しました。
 環境問題にも後ろ向きです。未来への投資はなく、今さえよければ良い、自分さえ良ければ良い。国際連合にも資金を出そうとはしないというエゴの塊みたいな人がトランプです。
 これは、強い事なのでしょうか?「やさしくね!やさしくね!やさしいことは強いのよ。」という宮城まり子さんの言葉を思い出しました。
 相手のハリスは、心に訴えかけましたが、この不況では言葉の力だけでは、なかなか人の心に届かなかったようです。アメリカ人には優しさより攻撃的な強さの方がわかりやすいのでしょうか?

 

 昔見た「縛り首の木(ハンギング・トゥリー)」というゲーリー・クーパー主演の映画のDVDをまた観たくなって買いました。
 ここに出てくる伝道師(ジョージ・C・スコット=私の大好きな俳優です。)が印象的です。噂を流し、多くの人を悪い方(ここでは縛り首)に先導するところなど、トランプが議事堂に先導したところを思い出してしまいます。
 あの議事堂占拠事件以来、私はアメリカ人を信用できなくなりました。同じように自分の事ばかり考えているようなアメリカ人の代表みたいなトランプもまた信用できません。この世界が、一層悪くなるとしか思えなくなってしまいそうです。

 

 私たち、いや私は、何をすれば良いのかと考えてしまいました。しかし、微力な人間としては何ができるわけではありません。ただ、自分の生き方をするしかないのでしょう。
 少なくとも、次世代に生きる子供たちのためを考えて非力な人間が力を合わせることを考えていきたいと思うばかりです。

 

11.3〜4 弥生町文化祭

毎年出品している文化祭のさくひんです。
今年のバードカービングは、ルリビタキです。
紙工作でコーカサスオオカブト、カブトムシ、ノコギリクワガタも出品
<img src=

 

詩は、「メジロ」と以前の詩の改編「在る」です。
<img src=

6.7.30中学校地域懇談会より

挨拶をする機会がありましたので以下の様に話しました。
 挨拶に代えて
 町会では先日納涼大会を行いました。今年も弥生町だけで行いましたので中学生全体を参加させる事ができず残念でしたが、手一杯でした。まとめたお金の中に新一万円札がありました。

 

 印刷されている渋沢栄一の考えとは、道徳と経済とは、必ず一緒になし得られるものであるということで、言い換えれば「儲かれば良いというものではなく道徳的価値が必要だ。」ということです。
 この考え方で社会が発展していれば、こんなに社会が不安定になることは無かったのではないかと思います。
 ビッグモーターやオレオレ詐欺など昨今の儲かれば何をしても良いという考えが多くの事件を起こしているのではないでしょうか?
 そのためか、誰も信用できない社会となっているように感じます。 これらの結果には教育も大きくかかわってきたのですから、教育には大きな責任があると思うのです。

 

 私は、いい社会とは、子供が住みやすく多くの経験ができる子供が生き生きとしている社会だと思います。
 以前は、学校・家庭・地域社会の三者が協力して子供を育てようとしてきました。お互い信頼を失うような事件があり、コロナ禍があり、子供のための社会ではなくなっているように思います。

 

 今こそ、「本当に子供のために良いかどうか」ということを意識して、協力して子供を育てなくてはならないのだと思います。これを機会に、みなさんどうかよろしくお願いします。

 

久しぶりのお寺の一言6.4.30

前にも出したことがありますが、曹洞宗のお寺の前を通ったとき掲示板にあったことばです。
「人の違うを怒らざれ(ひとのたがうをいからざれ)」
確かに、人は、それぞれ違うのに怒ってもしょうがないのですが、自分と違うことを怒る人がいます。そのことを諭した禅の言葉です。

 

禅の教えで思い出しましたが、先日「剣神 林崎甚助」シリーズ7巻を読み終わりましたが、その中に禅にまつわる内容があったので、紹介します。
重信は、喜多院の天海僧正に西から出羽戻ると別れを告げに行く。・・・
天海「人は何かと未練のあるものでな。それは良いことです。未練は生きた証なのだから・・・・」

 

その後、名人越後と呼ばれる前田家の友田越後守重政と会う。
その越後守も、江戸期において二百とも三百とも五百ともいわれる剣の流派に、神夢想流居合が取り入れられるとは想像できなかった。
「剣禅一如」重信が辿り着いた最後の答えだ。・・・
「老師にお教え願いたい。仏心鬼剣とはいかに?」
禅問答のような問いである。
「剣を抜かぬことでござる。仏の剣は人を斬るに非ず、慈悲を著す剣にございます」
「なるほど、仏は剣を抜かぬ……」
越後守の平法、戦わぬことに等しい。
「老師の禅は曹洞禅とお聞きしましたが?」
「はい、出羽楯岡の祥雲寺は能登総持寺の二世、峨山禅師の流れですので……」
「無一物中無尽蔵……」
「はい、何もないからこそすべてがあるとの教えかと……」
「なかなかに難しい悟りにて……」
「それがしは、神との約束を果たしましたので、剣を置こうかと思います」
「無一物に……」

 

ついでに最終刊に載っていた「剣士の墓碑銘」を記して4月も最後とします。
山本勘助 永禄四年(1561)九月十日、享年六十九、京流。
塚原土佐守卜伝入道 元亀二年(1571)二月十一日、享年八十三、鹿島新当流。
北畠中納言具教 天正四年(1576)十一月二十五日、享年四十九、鹿島新当流。
上泉伊勢守信綱 天正五年(1577)一月十六日、享年七十、新陰流。
斎藤伝鬼坊 天正十五年(1587)享年三十八、天流。
師岡一羽 文禄二年(1593)九月八日、享年六十一、一羽流。
奥山休賀斎 慶長七年(1602)享年七十七、奥山流。
疋田景兼 慶長十年(1605)享年六十九、疋田陰流。
柳生石舟斎 慶長十一年(1606)四月十九日、享年八十、柳生新陰流。
宝蔵院胤栄 慶長十二年(1607)八月二十六日、享年八十七、宝蔵院流。
富田入道勢源 生没年不詳、富田流。
鐘捲自斎(戸田一刀斎) 生没年不詳、戸田一刀流。
伊藤一刀斎 生没年不詳、一刀流。
津田小次郎 慶長十七年(1612)四月十三日、享年七十推定、巌流。
林崎甚助重信 元和九年(1623)八月二十二日、享年八十二推定、神夢想流。
富田越後守重政 寛永二年(1625)四月十九日、享年六十二、富田流。
小野忠明 寛永五年(1628)十一月七日、享年六十四、小野派一刀流。
丸目石見守徹斎入道 寛永六年(1629)二月七日、享年九十、タイ捨流。
東郷重位 寛永二十年(1643)六月二十七日、享年八十三、薩摩示現流。
古藤田勘解由左衛門俊直 生没年不詳、唯心一刀流。
田宮対馬守長勝 正保二年(1645)一月、田宮流、父平兵衛が神夢想流二代目。
新免武蔵 正保二年(1645)五月十九日、享年六十二、二天一流。
柳生但馬守宗矩 正保三年(1646)三月二十六日、享年七十六、柳生新陰流。
宝蔵院胤舜 正保五年(1648)一月十二日、享年六十、宝蔵院流。
長野無楽入道模露斎 慶安二年(1649)享年九十余、無楽流、神夢想流三代目。
柳生兵庫助利厳 慶安三年(1650)一月十六日、享年七十二、柳生新陰流。
片山伯書守久 安慶安三年(1650)三月七日、享年七十六、片山伯書流。
高松勘兵衛信勝 承応元年(1655)享年八十三、一ノ宮流。
三間与[左衛門景 延寛文五年(1665)享年八十九、水鴫流。
松林騙也斎永吉 寛文七年(1667)享年七十五、夢想願流。
関口弥六右衛門氏心 寛文十年(1670)三月七日、享年七十三、関口流。
一宮左太夫照信 延宝三年(1675)享年五十六、一宮流、神夢想流四代目。
長谷川英信 享保四年(1719)十二月、享年百十入、長谷川英信流。
辻月丹 享保十二年(1727)六月二十三日、享年七十九、無外流。
千葉周作 安政二年(1855)十二月十日、享年六十二、北辰一刀流。
井伊直弼 安政七年(1860)三月三日、享年四十六、新心新流。
坂本龍馬 慶応三年(1867)十一月十五日、享年三十三、北辰一刀流。
近藤勇 慶応四年(1868)四月二十五日、享年三十五、天然理心流。

 

綺羅星の如く、数多の天才剣士たちが神夢想流の連枝になり、自らの流派を開くことになる。その居合の嚆矢は林崎の剣神甚助重信である。幼名を民治丸という者なり。
嚆矢(コウシ):物事の始まり

久しぶりのお出かけ 4.10

 町会の新年度の向けての準備に没頭している間に1ヶ月があっという間に経ってしまいました。
 桜も終わりに近づきましたが、見頃の桜が満開のところに行きましたので紹介します。今日これを見た人は、ラッキー!まだ、もう少し咲いているかも?
 友人のM氏から教わった天王山という場所で、所沢の西の外れから瑞穂にかけて自然の遊歩道があります。たまたま天候が良く、9時過ぎに出られたので、昼までに戻れるように車で行ってきました。
 近くに行ってから妻のスマホの案内で適当に道なりに行ってみると、天王山東台駐車場に着きました。すぐ下に運動公園があり、その周りの桜が満開でとても見ごたえがありました。その後、瑞穂ビューパークの展望台に行って富士山を見て帰ってきました。
<img src=<img src=
<img src=<img src=
上=天王山東台駐車場から石畑公園 下=瑞穂ビューパークへの階段と展望台

押しボタン6.3.6

 今朝のあさイチでボタン特集をやっていたので思い出した学校の非常ボタン
(火災通報の赤いボタン)のことをお話しします。

<img src=


 学校にある非常ボタンは、大体が非常用の火災消火ホースを収納している赤いボックス(消火栓)に着いている事が多い。
 それらは、一括で管理されており集中管理システムの制御盤が大体は職員室と主事室(警備員室・事務室など玄関の脇にある部屋)に付いている。
 そして、それらの警報を感知すると全校中に火災警報が鳴り渡るだけでなく消防署や警備会社とも直轄しているので連絡が来ます。もし、連絡がつかないと消防車が来てしまうなどそれらの機関からの緊急配備がされてしまうのです。
 よくあるのが体育館での誤作動で、ボールが当たってしまい警報が鳴ってしまうことがあります。そうすると、子供たちはビックリしてしまいますし、先生たちは教室を飛び出して火元確認に当たります。大体消火栓の赤いランプが点滅していますので、制御盤にどこの非常ボタンが押されたのかがわかりますので、その場所の確認に空いている職員が接続電話機を持って走って確認しに行きます。(接続電話機は、消火栓にコードを差し込むと制御盤に付いている通信機と話ができますが、現在では携帯やスマホでの連絡の方が速いです。大体近くにいる先生が携帯で連絡してくれるのですぐにわかります。)
 そこで、誤作動が判明するとすぐに制御盤で警報を切り、校内放送で安全を知らせると共に関係機関に連絡します。誤作動がわかった時点で、近くにいる職員が押しボタンを引っ張って元のように戻します。引っ張って戻しておかないと復旧しても非常ベルが鳴ってしまいます。大体が、誤作動防止のために透明のプラスチック板(簡単に割れるようになっています)が付いていますので、押さえを取り外してからボタンを引っ張って戻し、交換をするなど元に戻してから制御盤のスイッチを入れます。
特別支援学級の子が鳴らしたことがありました。前から興味があるものには触ってみなくてはいられない子だったので、いつかは押すかもしれないと思っていました。一回やってみないとわからないので、仕方ないと思っていましたが、やってみると凄い音が鳴り響き、その子はそれ以来触ることはありませんでした。経験してみないとわからない事ってありますよね。その子にとっては、それが良い経験だったのだと思います。
ビックリしたのは、突然消防車が来て「火元はどこですか?」と聞かれた時です。その時は、小学校と中学校が廊下で繋がっている小学校にいましたが、あわてて外に出てみると隣の中学校の生徒が校庭に出てきていました。火事は、中学校で起こっていたのです。それなのに接している小学校には知らせずに自分のところだけ避難していたのです。ボヤ程度でしたので結果的には大したことではなかったのですが、「それはないでしょう!」でした。

 

覚悟を決める/最後の修業 佐藤愛子「生きるかなしみ」より

−自然に従って生きる−
 ・・・老い込むのが何が悪い、と私は怒りたくなる。老い込むことが私の自然であればそれに従えばよいではないか。私にとっての自然とあなたの自然とは違うのだ。・・・その人にとってそれが自然か、無理をしているかの差である。
 本当の年齢から十も若く見えたとしても、ただ、それだけのことであって、とりたてて自慢するほどのことでもない。羨望することでもない。
−今ここにある自分に満足する−
 今は欲望の充足が幸福だという思い決めが横溢している時代である。欲望は人間に活力を与えるもとであるから、欲望を盛んにするのがよいと多くの人が思っている。
 そう思うようになったのはマスコミが商業主義のお先棒を担いだためにちがいない。快楽は幸福であるという思い込みが価値観の混乱を招き、諦念や我慢は恰も悪徳ですらあるかのようだ。・・・
 かつて老人が老後の幸福として願ったことは心の平安というものではなかったか。それは「今ここにある自分に満足する」ということではなかったか。しかし快楽が幸福だと考えられるようになった今は、今ある自分に満足することがむつかしくなってきた。・・・
 老人の人生経験は今は後輩たちに何の役にも立たない時代だ。人生の先輩として教えるものは何もなく、従って老人に払われた敬意はカケラもない。あるのはただ形式的な同情ばかりだ。そんな時代に老後を迎える私がこれから心がけねばならぬことは、いかに老後の孤独に耐えるかの修業である。若い世代に理解や同情を求めて「可愛い老人」になるよりも、私は一人毅然と孤独に耐えて立つ老人になりたい。それがこれからの目標であり、それを私の人生の総仕上げとしたい。(「覚悟を決める」より)

 

−楽しい老後はあるか−
 今は老いも若きも、殆どの日本人が人生は楽しむもの、楽しくなければならないと思い込んでいるようである。それはまるで強迫観念になってしまったかのような観さえあり、国中に楽しみを得るための情報が氾濫している。・・・
−私の死に支度−
 どんなに頑張っても人はやがて老いて枯れるのである。それが生きとし生けるものの自然である。それが太古よりの自然であるとすれば、その自然に自分を委ねるのが一番よい。私はそう考えている。・・・
 今、多くの老人は老後を楽しく送りたいという願いの一方で、人に迷惑をかけずに死んでいきたいものだと心から念じている。家族主義の中で老人が大切にされ、うやまわれていた時代は老いて病むことも子や孫に預けておけばよかった。しかし犠牲を悪徳のように考える今は、身内の者が平和に楽しく暮す権利を認めなければならないから、老人はひたすら迷惑をかけることを怖れている。・・・
 これからの老人は老いの孤独に耐え、肉体の衰えや病の苦痛に耐え、死にたくてもなかなか死なせてくれない現代医学にも耐え、人に迷惑をかけていることの情けなさ、申しわけなさにも耐え、そのすべてを恨まず悲しまず受け入れる心構えを作っておかなければならないのである。どういう事態になろうとも悪あがきせずに死を迎えることが出来るように、これからが人生最後の修業の時である。いかに上手に枯れて、ありのままに運命を受け入れるか。楽しい老後など追求している暇は私にはない。(「最後の修業」より)

 

 これは、山田太一編「生きるかなしみ」という本に載っている文章である。この文章の初めに「老いても「自然」に自分を委ねるということがなくなっている。少しでも若くあろうとする。老人の幸福が、そんなことでいいはずがない。にごりのない言葉で書かれた佐藤さんの「覚悟」に、私は共感する。老いて生きる哀しみを、静かに味わえるような心の平安をこそ、私も求めている。」と、山田太一氏の言葉がある。
 私が年老いてきて感じていることは、この内容と同じようだしこれが正しいことだと思うが、自分の生き方をまだ全うしていないので、もう少し頑張る生き方をしてみようと思っている。自分の生き方を全うすることができることが人間としてのよい生き方だと信じているので。

 

新所沢パルコ2月で閉店

西武新宿線の所沢と本川越の間にある都会の象徴みたいな存在だったPARCO
いよいよ2月いっぱいで閉店します。これで新所沢周辺は、ただの住宅街
まあ、昔から都会とは言えなかったけど、寂れていくような気がします。
<img src=<img src=<img src=
       正面入口             北側入口      南側入口

 

前に投稿した「S先生言葉」より 6.2.10

 山田太一のエッセイ集「S先生の言葉」の始めのエッセイが「S先生の言葉」である。()に〔「私の人生を支えた言葉」という課題で〕とある。
その中にあるS先生の忘れがたい言葉は、授業中のもので、先生は、パスカルの『パンセ』の有名な言葉の二通りの訳を黒板に書いた。例の「考える葦」という断章である。
 その大意を書くと「入間は一本の葦にすぎない。自然のなかで一番弱いものだ。しかし、それは考える葦だ。一滴の水でも彼を殺すのには充分だが、人間は白分が死ぬこと、宇宙に比して自分がいかに弱いかということを知っている。宇宙は、なにも知らない。だから、人の尊厳のすべては、考えることのなかにある」というようなものだ。
 しかし先生は、パスカルそのものより、その訳を問題にされ。二通りの訳といったが、大意は当然のことながら、それほどの相違はない。
「大事なのは、ここの相違だ」と先生は、前記傍点の「だから」と、もう一方の訳のその編分に赤丸をつけられたのである。もう一方では「だから」のところが「そうだとすれば」と訳されていた。
 どちらが原文に照らして正しいか、という話ではない。「だから」という言葉は、なるべく使ってはいけない、という講義であった。「宇宙はなにも知らない」かどうか分らない。それは多くの考えの中のひとつの考えなのであるから「だから」という言葉で結論と繕びつけてはいけない。「そうだとすれば」という留保をつけなければいけない、といわれたのである。・・・
 先生の話を聞いて自分に足りないのは「そうだとすれば」という姿勢だ、とつくづく思い知ったのである。中学生なりに、自分が身を誤るとすれば「そうだとすれば」という姿勢のなさだろう、という気がした。以後「だから」という言葉に偏見がある。「だから、こうこうなのです」というような人の言葉を聞くと、「だから」というところだけ突出して聞えて、「そうだとすれば」といえばいいのに、と思ってしまう。・・・

 とあったので、私も人生を支えた言葉を思い出してみようと思ったが、思い出したのは「人生の生き方、考え方を変えた?」言葉だった。
 これが人生を支えた言葉かどうかわからないし、以前にも書いた気がするが、またでも良いだろうと思うので(笑)
 その言葉に出会ったのは、高校1年生の時だった。尊敬する先輩だった武井さんという3年生が生徒が出す新聞に載せた言葉だった。
 その文章の1部だが「ニュートンやライプニッツは、神のために学問をした。私は、人間のために学問をしたい。」という言葉だった。(正確かどうかわからないが)
 私の頭の中にずーっと残っていて少しずつだが勉強を始め、それが確実に私の中で動き始めたのは、自分の歩む道に迷っていた時だった。
 そして、それを確信したのは教員という職に就いた時だった。それからは、迷い無く人間(特にこれから人間として成長する子供たち)のために学問に向かった。子供たちをより良く成長させるために。
 と書いても偉人と違って凡人なので、できることは限られているし煩悩も多いので、実際は自分の守備範囲に過ぎないので大したことはできてはいない。私を知っている人は、またまたかっこつけてと思っているだろう。自己満足と言われれば、その通りだが、自己満足でもなければ人間生きていけないのではないかと思う。そう考えると、この言葉は「私の人生を支えた言葉」なのかもしれない。

無形資産6.1.28

 珍しく連日の投稿です。NHK朝のニュースで「高校生が考える人生100年」という特集をやっていました。
 ゲストは「16歳からのライフシフト」を書いたリンダ・グラットンさんです。
<img src=<img src=
 親世代は「教育」「仕事」「老後」の3ステージを生きてきたが高校生は違います。高校生は親世代と違う生き方をしなくてはならないのです。
 高校生の課題は、それまでの世代ほど年金をもらえず寿命延びる分の「蓄えが」むずかしいこと。
「今の高校生は、人生100年時代どうすればいいか」「何を身につければいいか」
 有形資産であるお金も大切ですが、無形資産も同じくらい大切だと理解することです。そのためには、「学び続ける」「心身ともに健康である」「変化に向き合う」ことです。
 3つの無形資産は、すべて時間にかかわっています。健康でいるにも、友人を本当に理解するにも時間がかかります。
 無形資産を築くことは、自分の時間をどう使うかです。
「人生をどう生きるか」「自分にとって何が大切か」
 若いうちから考える習慣をつけることで、よりよい無形資産を築くことができます。だからこそ、高校生が今、本当に問われているのは、「人間性をどう育てるかと」いうことです。「人間とは何か」「機械とは何が違うのか」自分に問わなければいけません。
 私たちは、感情を持ち、お互いを理解することができます。そして、創造的でもあります。何がベストか判断することもできます。これは、機械にはできないことです。
 今後80年の間に予想外の出来事がたくさん起こると思います。生成AIを予想していなかったように、こうした飛躍的な発展は、まだまだ出てくる。
「未来には、ワクワクすることがたくさんある。」今の若い人にはそう考えてほしいです。

 

無形資産を学んだ生徒の言葉
「お金だけで解決できるものには限りがある。」
「有形資産だけでも無形資産だけでも幸せになるのは難しい。2つは密接に関係している。」
「無形資産を磨くには、外から見えないゆえに若いうちから磨き上げたい」

 

「挨拶」について6.1.27

 児童の見守りをしている人たち(大体が年配)から「子供たちが挨拶しない」との声があります。
 挨拶は、自分を相手に知らせ、相手を知るための初めの接触です。ですから、教育現場では、できるだけ「挨拶しよう」と教えます。
 これのベースは、性善説です。相手がいい人だという前提があるからです。悪い人間には挨拶なんてしません。いかに年上だろうが、いかに偉かろうが同じです。 しかし、今は子供たちにいたずらをしたり拐かしたりする人間がいますから、親は、「知らない人には口を聞いたらいけない」と教えます。
 これは、性悪説ですよね。いい人か悪い人だかわからないから、どの人も悪い人だと考えてそう教えます。そうすると初めの接触ができませんから、本当に知っている人以外は「挨拶」もできないことになります。
 年配の人たちは、子供の頃から挨拶をするように教わってきていますから、なぜ子供たちが挨拶しないのかが不思議で不満感を持ちます。
 私は、一応教育者(自称)ですから性善説を取ります。だから、だまされても裏切られても「まあ、仕方ない」と思います。それより、何とか悪いことより良いことができる人間でいたいと思いますし、そういう人間を少しでも多くしていきたいと思います。
 社会の変化は、悪いことばかりが目に付くようになり「性悪説」に傾いているように思います。時代を担う子供たちが、挨拶ができない大人になるのも仕方が無く、そのうち当たり前の世の中になってしまうのかもしれません。
 私には、相当の危機感がありますが、今の小さな子の親はどう捉えているのでしょうか?
 今のうちに子供には判断力・決断力を備えさせて、どの人間だったら挨拶して良いのかを自分で見極めることのできる人間になってほしいものです。

 

航空公園にて 6.1.24

<img src=<img src=
<img src=<img src=
右下の1枚は、別の日に撮った写真 あとは5時前青空に月が出ていた頃の写真

令和6年は災害で始まった・・・しかし日常は!

タイトルとは違う?山田太一の「S先生の言葉」というエッセイ集にこんな文章がある。
「幼児期の子供には輝くような時がある。・・・主観的にはそういう輝きを感じた時、いつも「元をとつた。これで元をとった」と思っていた。予供はきっと大きくなって、思いもかけない異物となって私を悩ませたり、走り回らせたりするだろう。年をとった私を邪魔者のように扱ったりするだろう。しかし、いまこれほどの幸福感をあたえてくれたのだから、今後の不快感は仕様がない。この幸福感は、将来やってくるであろうさまざまな不快感をおぎなって余りある、というように思っていた。・・・だから子供が私より少しあたたかかったりすると、ひどく拾いものをしたような気がしてしまう。」
因果応報より抜粋
 このように考えると現在妻に感じている違和感や不快感も仕方が無いと思える。子供だけではなく、恋人、友人など過去に出会った人々にもそれは言える。輝いていたときがあったのなら、今に文句を言っても仕方が無い。もう元を取っているのだから、何を望むというのだろうか?

 

もう一つ本から「夜空はいつでも最高密度の青色だ」最果タヒ/著
ひとの詩
ぼくの価値 きみにはきっと関係がないもの
ぼくの価値 きみがたとえ、いようと、いなかろうと、
確定されているもの
きみが生きていること ぼくには本当は関係がないことだ
この時間を、愛という言葉で、ごまかしてしまってはいけない
わずかな嫌悪 わずかな死んでしまえという気持ち
それを打ち消しあう視線
きみがひとつの尊い命であるということを、
ぼくは人間だから理解できたんだ
生まれてきて、よかった

 

災害を受けた人の日常とは違うが、私の日常もあなたの日常も今そこにある。どの日常も考え方でちがうんだなぁ〜

食べ物の記憶

餃子

「ロッパの悲食記」という本を読んだら、とにかく大食いで美食家の古川緑波が自分の食べたものを記録しただけのエッセイだったので、私もまねをして自分の記憶を掘り起こしてみました。
 記念すべき第1回目は、「餃子」少し外れてばかりいる記録ですが、ご勘弁を!

 

 餃子と言えば思い出すのは、渋谷のミンミンと青山六丁目の中華屋さんと深沢不動交差点にあった中華屋さんだ。

 

渋谷のミンミンは、恋文横町という道玄坂の反対側、東側の道路から少し入ったところに
あった木造の店が連なった中の一角にあった中華屋だ。
覚えているのは、いつも2階の畳座敷に上がり、薄汚れた薄くて平べったい座布団を敷いて四角い座卓に向かい合って親子4人で座った。
座敷と言っても畳敷きではあるものの油で光っているようなところで、中華屋によく居るチャバネゴキブリがたまにチョロチョロすると母親が飛び上がって驚いた。
注文するのは、いつも餃子と焼きそばだった。
店員さんに注文すると箱のようなところに頭を突っ込んで注文を叫んでいた。
あれで下の調理場に注文を伝えて、それを下の調理場で作って上に上げるのだ。
行った始めは、わからなかったが、そこの木製の箱形筒状のものは、いわゆる料理を上に上げるためのエレベーターで、それに気付いた私は近くまで見に行った。
その箱状の筒には四角い窓が付いていてその向こうに箱が入っていてそれを上に取り付けてある滑車を使ってロープで引き上げるのだ。
気が付くと上に上がってきた箱に注文票を入れて下に下ろしているようだった。
いつも料理は、あまり待たずにできあがってきた。
焼きそばは、中細の平打ち麺で、豚肉、もやし・キャベツ等の野菜に中華味をからめて焼いたものだった。
餃子は、小ぶりでパリッとしていて1人前10個くらい入っていたと思うが、ペロッと食べてしまったので、いつも多めに頼んでいた。
そのうちだんだん数が少なくなっていったような記憶がある。
良く行ったのは、小学生くらいだったのに、いまだにその味と雰囲気は、忘れていない。
恋文横町が区画整理で無くなってしまってから、どこにいったのか不明だ。その時一緒に行っていた家族4人も今は私一人になってしまった。
赤坂に同じ名前の店があるのが大人になってからわかったが、それが同じ店かどうか調べてはいない。
その後、どこかに似た味の店はないかと探していたところ、たまたま研究会で高田馬場駅近くに行ったときに駅のガード下近くのビルに○○街と呼ばれる店が集まっていた中の中華屋さんで食べた餃子とやきそばが同じような味で感動した。ここも退職してから行ってみたらなくなっていた。

 

これも小学生時代の話だが、青山六丁目(今は番地が変わって六丁目は無い)の中華屋さんの餃子は、店に行ったことはなく、いつも出前で食べていたものだ。
ここの餃子は、ミンミンのとは反対に大きい餃子で、ミンミンの餃子の倍以上の大きさがあった。
とてもジューシーで肉汁が溢れてくる感じで食べ応えがあった。
ここもオリンピックの整備のため区画整理で無くなってしまった。移転したのかもしれないが不明だ。
オリンピックの整備は246の道幅拡張工事と地下鉄銀座線の敷線のために敷地の広かった紀伊國屋や玉川屋などは残ったが多くの店が退去を余儀なくされた。
その中でも残念だったのが、この中華屋さんとカレー屋さん、そしてコロッケ屋さんだった。
カレーは、インデイラカレーとして支店だか本店だかが渋谷宮益坂の東横の斜め向かい側、東映映画館の横にあったが、コロッケ屋さんは、その後しばらくの間店を小さくしてやっていたが、そのうちやめてしまったようだ。
コロッケ屋さんと言うが、揚げ物屋さんで、店主が元フランス料理人だった人だったので、今でもそのコロッケ以上の美味しいコロッケを食べたことが無い。
母親が夕飯のおかずが間に合わなかったときに、よくお使いに出されてコロッケ屋さんの店の中で揚げるのを待っていたものだ。
父親だけたまにとんかつだったりしたが、子供はいつもコロッケだった。私は、コロッケの方が好きで、たまにくるその日が楽しみだった。
調理場との間に低い仕切りがあり、そのしきりと入口の間がたたきになっており、そこにベンチが置いてあった。
コロッケは、パテのように1枚ずつ形作ってあり、奥さんがそれにパン粉を付けて、旦那さんが熱く熱してあるラードの油の中に滑らせて投入するのだ。
その時のジュワっという音とパチパチと油がコロッケにまつわりついて弾ける音、そして芳ばしい匂いは忘れることができない。
できあがると急いで家に持って帰り、まだ熱いうちに食べるのだが、たまに親と一緒に買いに行った時にその場で食べさせてくれたコロッケの味は、また格別だった。(店にはちゃんとソースが置いてあり、誰でも、持ち帰りでも使えた。)
さて、本題の中華屋さんだが、そこの餃子も同じようなものがないかと探したが、これも高田馬場駅近く戸塚二小の先にあった中華料理店で食べた餃子が大きい餃子で似た味だった。
上海料理の金華大飯店という名前だったと思うが、30年以上前の記憶だからどうだかわからない。

 

最後の深沢不動交差点にあった中華屋さんは、高校3年生の時に友達に連れられていって知った中華屋さんだった。
ミンミンのと似ている焼きそばで、具が一緒に炒めてある中華味の焼きそばだった。
ゆでた麺を炒めた野菜などの具の中に投入して炒めるので少しとろっとしているのがまた良い。
ここも始めに行った頃は中細の平打ち麺だったが、そのうち中華そばと同じ細麺になった。
初めて行ってビックリしたのは、友達がその焼きそばにソースをかけて食べたのだ!
私もまねして食べて見るとこれがまたなんとも言えないおいしさで、きっとそうして食べる人しかわからない味だと思う。
友達はきっと焼きそばをおかずにして食べるからソースをかけたのだと思うが、どうだったか聞くのを忘れたので本当はどうだかわからない。
餃子は、小ぶりの自家製餃子で、これもまたなんとも言えないおいしさだった。
高校を卒業してもOBとして高校まで毎週コーチに行っていたので、昼を食べるときはそこに行った。
注文の定番は、餃子・焼きそば・半ライスだった。
何回も行く内、店の親父さんが顔を覚えてくれて「いつもの?」と言うようになった。
もちろん焼きそばは、始めその味を味わってからソースをかけて喰う。何と言っても若いときのベスト1だ。
ウチの妻も一度一緒に行ったが、その食べ方は邪道だと言って非難された。でもやっぱりここでの食べ方はこれに限る。
オッと、主題の餃子からそれてしまったが、ここの餃子もミンミンに似ていて小ぶりのパリッとした焼き加減で一口で頬張るとじゅわっとうまみが口の中に広がる美味しい餃子だった。

 

この3軒の餃子に勝るものはないが、強いて言えば築地の片隅にあった中華屋さんの餃子くらいだろうか。
昔家でやっていた店の買い出しに築地魚河岸に行っていたとき朝食代わりにたまに行った。
吉野家の牛丼店の並びにあったが、ほとんどが吉野家かカレー屋さんで食べた。
また、話はそれてしまうが、ここの吉野家の牛丼は別格だった。
何しろ客は並んで待っていて食べるので、ご飯がいつも炊きたてでねっとりくっついているのに硬めだ。
それに「つゆだく(その頃はここでしか食べられなかった)」と頼んで、竹箸で紅生姜を丼のフチに乗せたら、かっ込むように食べるのだ。
ここでは、何でも速く済ませて仕事をしなくてはならないので、どこも回転が良くなければやっていけない。
カレーは、中栄といって今では名が通っているが、その当時はそう混ではいなかった。いつもカレーと野菜コンソメスープを頼んだ記憶がある。
丁度、築地が解体する前に行って中栄で食べたので写真がある。それを掲載して餃子からそれたが終わりにしよう。
<img src=<img src=<img src=<img src=
以前、2018年の記事に載せた築地の写真
左から築地市場入口を抜けたところ、中栄の看板、カレー合い掛け、鰹節の松村
鰹節の松村は、だしを取るために月1で買ってかえった。その場で削るからうまい!

 

<img src=<img src=<img src=<img src=
ここの店舗の入口にある案内板、隣に吉野屋、中栄の野菜スープ、中栄店先
これらの店も築地にはもう無い。移転したか、やめたか、それもわからない!

5.11月町会文化祭出品作品

<im<img src=   <img src=
ハチドリは粘土 メジロは木彫(バードカービング) ラムネ玉を木に彫った穴に乗せて

 

<img src=
<img src=
<img src=