令和7年が始まって、あっという間に時間が・・・

昨年末に愛猫つむぎが死んでしまい、やることを忘れてしまうことが多くなってしまうほどショックが尾を引いてしまっています。
今まで、つむぎのことは書かずにいたので、これから少しずつアップしようかと考えていたのに残念です。
それでも、日常は過ぎていきます。また心に残ったことを書いていきたいと思いますので、よろしくお願いします。

最近の気付き R3.6.7

気付きと言うより「思いだし」?

 Tシャツを着るとき、どちらが前か後かわからずに着てしまい、タグの付いている方向が決まっていることを思い出した。
 一応、調べてみたところ、シャツ関係は全て左側にタグが付いていた。(まれにタグがないものもあったが、開きのシャツで前後の間違えようがないものだった。)
 パンツは、ほとんどが後ろ側にあり、ズボンは、左右、ポケット内などまちまちだった。
 何でも忘れがちになり、反対に着てしまったり、ズボンのチャックを閉めるのを忘れたりするようになったこの頃、タグの位置を確かめると良いかもしれない。まあ、それも忘れるようになってしまうかもしれないが!(笑)

 

ワクチン接種が進みマスクは?

 町会だよりに載せたものをそのまま流用します。
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 ワクチンをしたからといって新型コロナウイルスに感染しないわけではありません。活動するには、今まで通りの感染対策が必要です。ワクチンを打って安心してマスクをしないでいると、知らないうちに軽度の感染をして家族や友達にうつしてしまうということもあります。福井県の感染経路を追ったデータによると、マスクをしていないときの感染が80%以上だということですから、マスクは必ず着けましょう。
 その肝心なマスクですが、上の図のように材質によりその効果に差がありますので注意してください。また、マスクの付け方でも予防効果は違います。
 実験でも隙間があるとマイクロ飛沫は、ほとんど通過してしまう事がわかっています。不織布マスクでも隙間があることで効果が半減してしまいます。ウレタンマスクではマイクロ飛沫が素通りしてしまい全く効果がないこともわかっています。
 人と会うときや話をするときには、不織布マスクを隙間無くピッタリ装着して、距離をとって話しましょう。

 

寺地はるな著「架空の犬と嘘をつく猫」より

 この物語の主人公が、本を出版することになった時に書いた書評エッセイが良かったので、またまた引用
刊行記念エッセイ「架空の犬」 羽猫山吹
 嘘をつくのが得意な子どもでした。現実でない、夢みたいなことならいつまでも飽きずに考えていられました。つらいことがあると、犬を撫でました。現実にはいない、架空の犬です。犬を飼えるような家ではありませんでした。もうすこし大きくなってからは、本をよく読みました。空想上の犬も、物語も、僕の大切な友だちでした。
 このお話の主人公であるおじさんは、僕の祖父です。父でもあり、もしかしたら、母でもあるのかもしれません。僕を含め、現実には存在しないなにか、を心の拠りどころとして生きている人たちです。
 物語を読む、という行為にも、そういう要素はあります。物語というのは、言ってしまえば現実におこったことではない、嘘、です。
 それでも、物語には、それを書いた人の思いや、願いが、たくさんつまっています。物語のかたちをとって伝えようとした思いや願いは、ぜったいに嘘でも架空でもなく、そこにあります。
 現実にはないなにかを心の拠りどころとして生きることは、むなしいことでしょうか。でも現実にはなくても、心の中には確かに「ある」、それは「確かにそこにある」ということなのです。生きるために、生きていくために、必要だったから、そこにあった。
 僕はこれからも現実に「ない」ものを守りながら必死に生きていくのだと思います。現実に「ある」大切なもの、家族や、周囲の人たちと同じぐらい。

本考16 楽園のカンヴァス〜暗幕のゲルニカ 3.5.23

 横道にそれたが、時代小説と長編物語、専門書または詩集と並行して読んでいる。最近、専門書は積ん読でいることが多い。なぜならコロナ禍でやる気が低下しているからだ。使う場面がないと、なかなか気持ちが追求・伝達というサイクルに繋がらないからと、自分にいいわけをしている。(笑)

 

 元に戻って「BOOK]データベースより写すと、「楽園のカンヴァス」は、「ニューヨーク近代美術館のキュレーター、ティム・ブラウンはある日スイスの大邸宅に招かれる。そこで見たのは巨匠ルソーの名作「夢」に酷似した絵。持ち主は正しく真贋判定した者にこの絵を譲ると告げ、手がかりとなる謎の古書を読ませる。リミットは7日間。ライバルは日本人研究者・早川織絵。ルソーとピカソ、二人の天才がカンヴァスに篭めた想いとは―。山本周五郎賞受賞作。」となる。

 

 「暗幕のゲルニカ」は、「ニューヨーク、国連本部。イラク攻撃を宣言する米国務長官の背後から、「ゲルニカ」のタペストリーが消えた。MoMAのキュレーター八神瑶子はピカソの名画を巡る陰謀に巻き込まれていく。故国スペイン内戦下に創造した衝撃作に、世紀の画家は何を託したか。ピカソの恋人で写真家のドラ・マールが生きた過去と、瑶子が生きる現代との交錯の中で辿り着く一つの真実。怒涛のアートサスペンス」!となる。

 

 「楽園のカンヴァス」は、古書を通じて現代と過去の物語が交錯する。「暗幕のゲルニカ」は、ピカソの物語とピカソの作品を扱うキュレーターの物語という過去と現代の物語が交互に描かれている。どちらも、両方の世界を想像しながら展開するアートサスペンスだ。 物語の内容は、読んでもらうのが良いと思うので、なるべく触れないようにしたいのだが、最後の解説だけは、物語の内容にあまり触れないように引用したい。

 

解説 池上 彰

 

 アートには、どれだけの力があるのか。戦争を阻止する力はあるのだろうか。この作品は、読者に究極の問いを投げかけます。
 二〇〇三年二月、世界は緊張に包まれていました。アメリヵのジョージ・ブッシュ政権がイラクを攻撃しようとしていたからです。(中略)
 この時期にパウエル国務長官は、国連安保理のロビーで記者会見を開きましたが、長官の後ろに位置する場所にあったピカソの「ゲルニカ」に暗幕がかけられていました。本書の作者である原田マハ氏は、これに衝撃を受けます。ゲルニカは、空爆によって阿鼻叫喚の地獄となった事態を象徴するもの。アメリカがこれから実行するイラク攻撃によって、イラク国内で同じような事態が起きることを予想した人物が隠したのではないかと直感したからです。(中略)
 一九四五年三月にあった東京大空襲では十万人の市民が亡くなりました。この頃、人々は「空襲」という言葉を使っていました。空襲とは、爆弾を落とされる側の表現です。
 ところがアメリカがアフガニスタンやイラクを攻撃するようになると、「空爆」と称されるようになります。私たちも、この言葉を使うようになりました。しかし空爆とは、明らかに爆弾を落とす側の表現です。私たちは、アメリカの発表をいつも聞いているうちに、いつしか心がマヒしてしまったのでしょうか。
 アメリカがイラクを攻撃した後で、パウエル報告のほとんどが事実誤認であったり、捏造されたものだったりしたことが判明しています。アメリカが「ゲルニカ」を隠しておきたかったわけです。疾(ヤマ)しさを感じた者がいたのでしょう。
 アメリカの攻撃により、当時のイラクのフセイン政権は崩壊します。ところがその後、イラクはイスラム教スンニ派とシーア派による内戦状態となり、数十万人とも言われる犠牲者が出ましたアメリカ軍兵士も多数犠牲になりました。この混乱の中からIS(イスラム国)が生まれ、戦火はイラクからシリアへと移り、世界中でISによるテロが頻発しました。アメリカの責任は大きいのです。(中略)
 その過去を反省するかと思いきや、いまや北朝鮮やイランへの軍事攻撃を口にしています。
 また「ゲルニカ」に暗幕がかけられる日が来るのでしょうか。いまのトランプ政権には、暗幕をかけるほどの疾(ヤマ)しさを感じる人すらいなくなっているようにも見えるのですが。
 果たしてアートにどれだけの力があるのか。せめてトランプ大統領には「ゲルニカ」の実物を見てほしいものです。(平成三十年四月、ジャーナリスト)

 

ピカソは、キュビズムで有名だが、ピカソ自身が「芸術は、飾りではない。敵に立ち向かうための武器なのだ。」と言うように、その作風とともに全ての敵に立ち向かう意思を持った画家なのであり、残された絵画もその意思を伝えるものなのである。
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 前回読んだ「たゆたえども沈まず」は、ゴッホの事を描いた本だったが、続けて「原田マハ」の画家を描いた物語を読んだ。
 「楽園のカンヴァス」はアンリ・ルソー、「暗幕のゲルニカ」はパブロ・ピカソの物語だ。
 4月の終わりから昨日までかかってよんだ。とはいってもこれだけを読んでいるわけではない。大体が一度に2〜3冊違うジャンルの本を読む。

 

 勤務していた若い頃は、専門書を読んだ。通勤の電車の中では、1〜2時間は読書時間がかせげた。
 管理職になると、通勤時間帯の読書は、時代小説になった。今は、時代小説は、寝る前に読む本になっている。

 

寺地はるな著二作品を読んで 3.5.20

 初めに読んだのは「わたしの良い子」という作品で、妹の子供を育てる姉の物語で、人と比べないで「自分は自分」という感覚に行き着くまでの物語だ。
 作者の寺地はるなさんは、主婦から作家になった人であるが、人の間の外側と内側を鋭く描写していて、読みやすい文章なのが特徴だ。
 そこで、違う作品も読んでみたくなり「大人は泣かないと思っていた」という本を読んでみた。
 この作品の特徴は、登場人物6人の視点で短編が構成されていて、それぞれの短編を登場人物がそれぞれ語っている。そして、それが物語として繋がっているという展開で、1章と7章は、主人公の視点で書かれて物語ができあがっている。

 

 その中で、気に入った言葉を抜粋!
大人は泣かないと思っていたより「ひとりの人間の生涯におこったことのすべては、そのひと自身しか知り得ない。ひとがひとりいなくなるということは、ひとつの物語が消滅するということでもある。・・・」
あの子は花を摘まないより「いろんなひとを傷つけもしたし、迷惑をかけたもの。でも過去があっての、今のあたし。だからどうせ頭をつかうなら、あの時こうしてたらどうなったかな、なんてことじゃなくて、今いるこの場所をどうやったらもっと楽しくするか、ってことを考えたいのよね」
君のために生まれてきたわけじゃないより「親の面倒を見るために生まれてきたわけじゃないだろうという父の言葉を、最近よく思い出す。みんな誰かのために生まれてくるわけじゃない。自分が小柳さんと会うために生まれてきたわけじゃないことも知っている。知ってはいるけど。「一緒にいられてうれしいなと思って」・・・」

 

 確かに人間は、誰かのために生まれてきたわけじゃない。何のために生まれてきたのかもわからない。自分で自分の人生を生きていくしかない。自分の人生は、自分が作ったものだ。そして、その人生は、自分だけで作ったものでもない。大切なことは、「誰のため、何のため・・・」と考えるより、大切なひとや自分のために今の自分を精一杯生きることなのだろう。

 

平行して読んでいた「読まずに死ねない 世界の名詩50編」より

「ボヘミアン」 トリスタン・クリングソール
かんじんなのは
苦しみを
笑い飛ばす事だ

 

愛する女よ
自分の哀しみで
歌をつくれ

 

人生は
わけのわからない
苦しみで
いっぱいだから

 

泣くのがいやなら
自分の哀しみを
笑とばして
暮らせ

 

「生きる」 アンリ・ド・レニエ
永遠の愛
それは
よろこびよりも
かなしみ

 

すべては終わり
また始まる
死んで
ふたたび
よみがえる

 

だから
たいせつなのは
ただ、生きること
ただ、生きていくこと

 

小さい庭にバラが満開3.5.8

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左 ピエール・ドゥ・ロンサールとバイオレット   右 ラベンダー・ラッシー

本考16 完全版「日本婦道記」 3.4.30

 言わずもがな山本周五郎の名作短編集である。
 山本周五郎は、この作品での直木賞受賞を断るのだが、その選評の中で選者の井伏鱒二と吉川英治がこの作品を「名婦伝」と呼んでいるのもなるほどと思える。
 以前から持っていた文庫版は、全部掲載されたものではなかったので、改めて読んでみた。全ての作品の中でもやはり一番好きな作品は、以前と変わらす「風鈴(旧題「生き甲斐」)」だったので、それを紹介する。

 

 主人公は、つましい生活の中でやりくりをして針仕事などをして生活している侍の妻「弥生」だ。妹2人は、石高の高い家に嫁に行き、様々なところへと姉を誘う。そうこうしているうちに、彼女も何のために生きているのかと疑問を持つようになる。
 妹たちなどが姉に楽をさせようと真面目に働く夫「三右衛門」を上級武士に引き上げさせようと働きかけるのだが、その時の夫の話を漏れ聞く妻の物語だ。
 この後は、言葉では説明できないので、引用させていただく。

 

「役所の事務というものは、どこに限らずたやすく練達できるものではございません。勘定所の、ことに御上納係は、その年どしの年貢割りをきめる重要な役目で、常つね農民と親しく接し、その郷、その村のじっさいの事情をよく知っていなければならぬ。これには年数と経験が絶対に必要です。単に豊凶をみわけるだけでも私は八年かかりました。そして現在では、私を措いてほかにこの役目を任すことのできる者はおりません。……それとも誰か私に代るべき人物がございましょうか」
相手は、「正直に申して代るべき者はない」と応える。
「……こんどの話がどうして始まったか、推挙して呉れる人の気持がどこにあるか、私にはよくわかっています。」
「その人たちには私が栄えない役を勤め、いつまでも貧寒でいることが気のどくにみえるのです。なるほど人間は豊かに住み、暖かく着、美味をたべて暮すほうがよい。たしかにそのほうが貧窮であるより望ましいことです。なぜ望ましいかというと、貧しい生活をしている者は、とかく富貴でさえあれば生きる甲斐があるように思いやすい。……美味いものを食い、ものみ遊山をし、身ぎれい気ままに暮すことが、粗衣粗食で休むひまなく働くより意義があるように考えやすい。だから貧しいよりは富んだほうが望ましいことはたしかです。然しそれでは思うように出世をし、富貴と安穏が得られたら、それでなにか意義があり満足することができるでしょうか。」

弥生は身ぶるいをした。・・・
「おそらくそれだけで意義や満足を感ずることはできないでしょう。人間の欲望には限度がありません。富貴と安穏が得られれぼ更に次のものが欲しくなるからです。」
良人のこえは低いうちにも力がこもってきた。
「たいせつなのは身分の高下や貧富の差ではない。人間と生れてきて、生きたことが、自分にとってむだでなかった、世の中のためにも少しは役だち、意義があった、そう自覚して死ぬことができるかどうかが問題だと思います。人間はいつかは必ず死にます。いかなる権勢も富も、人間を死から救うことはできません。私にしても明日にも死ぬかもしれないのです。そのとき奉行所へ替ったことに満足するでしょうか。百石、二百石に出世し、暖衣飽食したことに満足して死ねるでしょうか。否、私は勘定所に留まります。そして死ぬときには、少なくとも惜しまれる人間になるだけの仕事をしてゆきたいと思います。」

 

 生き甲斐とはなんぞや、ながいこと頭を占めていたその悩みが、いま三右衛門の言葉に依ってひとすじの光を与えられた。それはまぎれもなく暗夜の光ともたとえたいものだった。
 貧しい生活をしていると富貴でさえあれば生き甲斐があると思いやすい、良人は今そう云った。自分が思い惑ったのも、つきつめれば妹たちの暮しぶりをみ、その非難を聞いて、自分の生活よりは意義があり充実しているように考えたからだ。
 なんというあさはかな無反省なことだったろう、縫い張りや炊事や、良人に仕え子を育てる煩環な家事をするかしないかが問題ではない。肝心なのはその事の一つ一つが役だつものであったかどうかだ。女と生れ妻となるからは、その家にとり良人や子たちにとって、かけがえの無いほど大切な者、病気をしたり死ぬことを怖れられ、このうえもなく嘆かれ悲しまれる者、それ以上の生き甲斐はないであろう。然し、それでは自分はこの家にとってはたしてかけがえのない者であるかどうか、どうしても無くてはならぬ者だろうか。…:弥生には然りと思うだけの自信も勇気もなかった。
 「そうだ」彼女はしずかに面をあげた。「少なくとも良人や子供にとってかけがえのない者にならなくては」そう咳くと、なにかしら身内にちからが湧いてくるようだった。

 

 なぜ、「風鈴」と改題されたかは、この後に出てくるのだが、ここではこれまでとしておこう。知りたい人は、読んでお確かめください。

今度は、バラとクレマチス R3.4.25

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左は、ブラックティーというバラで香りがある。右のクレマチスの名前は忘れたが、大輪の八重咲きで美しい。

 

先日の記事に間違いがあったので修正します。
写真の花は、スズランではなくて、アマドコロという花のようです。(_ _)
ちょっと違いますが、俳句はスズランのままで失礼します。(笑)

 

野の花での発見 R3.4.17

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散歩の途中で二つ花を発見した。
まず、右の写真は、家が取り壊された更地に生えていたスズランだ。
家があったときに植えられていたのだろう。しぶとく地面から顔を出したのだ。スズランというと可憐な感じがするのだが、どうして生存力はすごいヤツなのだ。
そこで、一句・・・
すずらんや 解体跡地に 咲きにけり(凡人(笑´∀`))

 

左の写真は「シロバナタンポポ」関東より西に生息する品種で、私は初めて見た。
日本タンポポが西洋タンポポに侵略され、生息数が激減しているところに、この「シロバナタンポポ」が関西圏から運ばれてきて、更に日本タンポポは肩身が狭い思いをしているに違いない。
ちなみに関東圏に生息する日本タンポポは、「カントウタンポポ」と呼ばれるものだ。下の図は、わかりやすいので他のサイトから拝借した。
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思い出のリサイクル 4/13

 

 「片づけたい(河出書房新社)」という本を読んでいたら、その中に「思い出リサイクル」という小川洋子のエッセイがあった。
 元々この「片づけたい」という本は、片づける方法を書いたものではなく、どちらかというと片づけられない人のエッセイを集めた本のようだった。

 

 さて「思い出リサイクル」であるが、前に読んだ気がしていたら「カラーひよことコーヒー豆」という小川洋子のエッセイ集の中に納められていたエッセイだった。
 「物を捨てるのが怖くてたまらなくなったのは、いつ頃からだろう。」という文から始まって「私にとって物を捨てることは、生活の中で最もエネルギーを要する行為となった。」と続き、ゴミ出しに厳しいおばさんの話から「私が子供の頃は、何でも物を大事に使うこと、できるだけ無駄なゴミを出さないことは当たり前の生活態度だった。」と綴られている。
 その後のアウシュヴィッツの強制収容所を見学した時の話では、ユダヤ人から収奪した遺品の中のたくさんのお人形が着ていた洋服一針一針に込められた人間の手の温もりがまだ十分に残っていたこと、捨てればゴミになるようなものから、こんなにも温かく愛らしい品が残せるということが語られている。「これこそ人間が本来、物と人に対しで持つべき愛情のあり方ではないだろうかと、ガス室に消えていった人々の姿を思い浮かべながら、そう感じている。」と結ばれるので、もう十分な内容なのだが、この後に表題の「思い出リサイクル」について出てくるところが、この作者のすごいところだ。
 最後にその文を引用してみよう
 私が最も効率よくリサイクルしているのは、思い出である。他の人から見たら何でもない些細な思い出を大事にし、繰り返し何度でもよみがえらせて、そのたびに感動を新たにすることができる。自分でもこれはちょっと自慢してもいい才能ではないかと、秘かに胸を張っている。
 例えば、お味噌汁に入れるお豆腐を掌の上で切っている時、必ず思い出す風景がある。息子がまだ言葉を覚えて問がなかった頃、私が同じようにそうやってお豆腐を切っているのを見つけた彼は、不意に叫び声を上げた。
「ママー、おててが切れちゃうよ」
 そう言って、私の足に抱きつき、涙をポロポロ流したのである。
 西日の当たる台所で、お味噌汁の湯気が立ちこめる中、冷たいお豆腐を掌に載せていると、息子の声がよみがえってくる。ママー、おててが切れちゃうよ。その言葉が心の中に響き渡る。自分には心の底から純粋に泣いてくれる人がいる。そんな思いに浸って、幸せをかみ締める。泣いてくれた本人はすっかり大人になり、そんなことなど少しも覚えてはいないのだけれど。
 思い出を作ろうとして躍起になるよりも、時には既にある思い出の中に隠れた喜びがないかどうか、探ってみるのもいいかもしれない。思い出をリサイクルするのには、ややこしい説明書きも、お節介なおばさんも不必要なのだから。

 

 私も、そろそろ思い出をリサイクルしてみようと思う。年寄りには、いい頭の体操になるかもしれない。

本考15 奇跡の人 4/5

 久しぶりに原田マハの本を読んだ。
 最近は、相変わらず時代小説ばかり読んでいて・・・というのも年度替わりで町会の仕事が立て込んで(笑)
若いときには、大体3つぐらいの仕事をかかえていても、研修会に行ったときには次の日までにレポートを仕上げていたのに・・・
そういえば、最近走れなくなった。膝や腰を痛めていた事もあるが、とにかく身体が云うことを聞かない。足が上がらないのには、失望の連続だ。
それでも、毎日1万歩以上歩いてはいるのだが・・・

 

 おっと、本題「奇跡の人」
 読み始めは、盲目の三味線弾き(狼野キワ」が出てきて、「これが何に繋がるのだろう」と思っていたが、それがわかるのは物語の相当後になってからだ。
言うまでも無くヘレン・ケラーとアン・サリバンという実録を日本に置き換えたフィクションだ。そのことで名前や状況などに違和感をもつ読み手は多いことだろう。私もwaterの発音が日本語にするとどうなるかと思って読み進めていたら、そのまま「水」となっていたのでどうかと思ったが、発音するわけではなく文字の意味をつなげることに使われているので、作者の苦心したところだと逆にうなずくしかなかった。
 家庭教師「去場安(さりばあん)」と三重苦の少女「介良れん(けられん)」の物語なのだが、実録との線は変わらずだがフィクションになると、また様々な意味を持つようになるから原田マハという作家の感覚と創造性のすごさに感心させられた。
 日本の明治時代の社会制度や家族制度の中では、今の平等感覚など更に無い。今でも偏見や差別が明らかに残っているが、明治時代の比ではない。
そんな中で強く生きる女性の姿を描いている。後で登場する津軽地方でボサマと呼ばれる盲目の門付け芸人キワが、れんとの友情によりお互いに成長していくところに、この物語がフィクションでなくては描けない部分があると思う。

 

 教育は、一対一で行うとどうしても教えるという上から下への伝達・強制というべき面が強く出てしまう。それよりも子供同士が学ぶことで、お互いが刺激し合い、高め合うことに繋がるというのは、学び合いを提唱している私の考えに近いもののように感じた。
 どういう状態でも人間は、一人では生きていけない。教育もまた一人では十分にはできない。ただ知識の習得だけでは、AIに勝てない。人間が、人間らしく生きていくために教育がある。学校の存在価値がそこにあることを子供たちのために教育に携わる人々は再考するべきだ。集団をいかに教育に生かしていくべきかを!

 

 盲目の門付け芸人のキワが出てくるまでは、安とれん、そしてれんの家族との格闘の連続だが、これはヘレン・ケラー物語と同様の展開だ。そこに、キワが出てくることで言葉を伝えることの重要性が更に増してくる。人間は、言葉がないと考えることができない。感情を表すことも、自分の中でさえ現すことができないから、意思を伝える事も当然できないのだ。実は、言葉は人間にとっては、奇跡的なツールなのである。文字とモノや感覚、思考をつなげ、自分の考えを創り上げていくことが教育の本来の仕事なのではないかと感じさせてくれた作品だった。
 キワとれん、貧乏人の農家に生まれた子供は、盲目だと家を出され門付け芸人として一生を終わる。片や富豪の名家に生まれたれんは、蔵に閉じ込められ、衣食住不自由はないものの見えないところでいじめを受けたり甘やかされたりしている。そんな二人が、お互いに心を通わせ、共に成長していく。

 

 「奇跡の人」を三重苦を克服したヘレン・ケラーだと印象付けている人は多い。しかし、本当は「奇跡を起こした人」アン・サリバンなのだ。この物語は、更にそのことを明確にしている。安の起こした奇跡は、安の差別や偏見に負けない強い意志と教育への強い思い(言葉を身に付けさせ、自分の意思で考え行動できる人間に育てること)によって成し遂げられた。それは、安のれんに対する強い愛とその裏にある人間への深い愛を感じさせてくれるものだった。

 

桜満開 3/26

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春爛漫 3/15

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今度は姫こぶしが R3.3.10

いよいよ春です!
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左が3月8日(月) 右が今日3月10日(水)

 

日に日に景色が変化していく。
花粉症さえなければ、春はいい季節だ。
コロナウィルスに感染しないようにマスクをしているのがいいのか?今年はひどくはない。まあ、何十年と薬を飲んでるから何がいいのかわからないんだけど(笑)

 

クリスマス・ローズがまた咲いた R3.3.1

 

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今日は、お散歩で歩いているとき、ボーとしてというよりは鳥や花を探しながら歩いていたので、右側から来る自転車に気付かず、すぐそばに来て気付き止まった。
それでもギリギリというわけでもなかったのに、自転車に乗っていた若者は通り過ぎてから「バカヤロ」と小さな声で一声!
まあ、確かに「バカヤロ」だとは思うが、何だか悲しかった。
あのまま気付かずにぶつかっていたら、自転車の傷害事件になったわけだし、歩行者優先だし・・・
どちらかというと自転車の彼にとってはラッキーだったわけなんだけど、こんな老人のために犯罪者にならなくて済んだんだから(笑)
そんなことも考えたんだけど、何だか悲しかった。私が、「ごめんなさい」と言った方が彼は救われたんだろうか?
自転車の彼のことを考えると、またまた何だか悲しくなった。
散歩の時に見付けてほっこりした「コサギ」も「草を食べてる野良猫」も全てが、悲しくなってしまった!残念!

 

クリスマス・ローズが咲いた R3.2.22

 

今日は、にゃんニャンニャンで猫の日(笑)
うちの猫には、羽のついたおもちゃを・・・興奮(=^..^=)ミャー

 

先週、小さな庭にクリスマス・ローズが咲いた。八重の白と黒!
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今日はイエローと白にピンクの縁取り!
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かたくなにかたくなに下を向く君よ
指でそおっと顔を持ち上げるとそこには美しい君が
強い風にも負けないように下を向いてる君だから美しく
そっとそおっと春の訪れを告げてくれる

 

暖かい南風が吹いて、今日はもう春が来たようです。
春風がコロナ禍を吹き飛ばして来たる春を待ちわびる花粉症の我!!!

Piano man R3.2.16

NHKで「六畳間のピアノマン」を観た。
その中に使われているのがビリー・ジョエルの「Piano man」という曲だ。
青春時代を思い出させる曲で、ビリー・ジョエルの中でも印象に残る歌だ。
聴き始めは、ビートルズかボブ・デュランの曲かと思っていた。
カントリー&ウエスタン系の曲だと思ったからだ。
まずは、その曲を原文のまま紹介しよう!

 

「Piano man」 Written by Billy Joel

 

It’s nine o’clock on a Saturday
The regular crowd shuffles in
There’s an old man sitting next to me
Making love to his tonic and gin

 

He says, “Son, can you play me a memory
I’m not really sure how it goes
But it’s sad and it’s sweet and I knew it complete
When I wore a younger man’s clothes.

 

La la la, di da da
La la, di da da da dum

 

Sing us a song, you’re the piano man
Sing us a song tonight
Well, we’re all in the mood for a melody
And you’ve got us feeling alright

 

Now John at the bar is a friend of mine
He gets me my drinks for free
And he’s quick with a joke or to light up your smoke
But there’s someplace that he’d rather be

 

He says, “Bill, I believe this is killing me.”
As the smile ran away from his face
“Well I’m sure that I could be a movie star
If I could get out of this place”

 

La la la, di da da
La la, di da da da dum

 

Now Paul is a real estate novelist
Who never had time for a wife
And he’s talkin’ with Davy, who’s still in the Navy
And probably will be for life

 

And the waitress is practicing politics
As the businessmen slowly get stoned
Yes, they’re sharing a drink they call loneliness
But it’s better than drinkin’ alone

 

Sing us a song, you’re the piano man
Sing us a song tonight
Well, we’re all in the mood for a melody
And you’ve got us feeling alright

 

It’s a pretty good crowd for a Saturday
And the manager gives me a smile
‘Cause he knows that it’s me they’ve been comin’ to see
To forget about life for a while

 

And the piano, it sounds like a carnival
And the microphone smells like a beer
And they sit at the bar and put bread in my jar
And say, “Man, what are you doin’ here?

 

La la la, di da da
La la, di da da da dum

 

Sing us a song, you’re the piano man
Sing us a song tonight
Well, we’re all in the mood for a melody
And you’ve got us feeling alright

 

この曲は、実際に彼がバーで演奏していた頃のことを歌った曲だという。
最後の訳は
「俺たちのために歌ってくれよ、ピアノ弾きさん   
 俺たちのために歌ってくれよ、今夜
 俺たちはみんなメロディーに酔いしれたいのさ
 おまえは、俺たちを気分良くさせてくれるんだ」
とでもなろうか?(自分なりの訳なのでお許し願います。)

 

Uチューブでビリー・ジョエルの歌を聴いたが、実際のバーの様子が目に浮かぶような気がした。そして、その中にいる退廃的な自分自身の映像も!

 

そんなことを思い出しながら日本の詩を思い浮かべたので紹介しよう!
声で楽しむ「美しい日本の詩」近・現代詩篇 岩波書店 大岡信 谷川俊太郎編 より

 

皎皎(こうこう)とのぼつてゆきたい 八木重吉

 

それが ことによくすみわたつた日であるならば
そして君のこころが あまりにもつよく
説きがたく 消しがたく かなしさにうづく日なら
君は この阪路をいつまでものぼりつめて
あの丘よりも もつともつとたかく
皎皎と のぼつてゆきたいとは おもわないか

 

※思うよ!思うんだけどなぁ〜

 

あーあ  天野忠

 

最後に
あーあというて人は死ぬ
生れたときも
あーあというた
いろいろなことを覚えて
長いこと人はかけずりまわる
それから死ぬ
わたしも死ぬときは
あーあというであろう
あんまりなんにもしなかったので
はずかしそうに
あーあというであろう。

 

※きっと言うよな〜

 

六月  茨木のり子

 

どこかに美しい村はないか
一日の仕事の終りには一杯の黒麦酒(くろビール)
鍬を立てかけ 籠を置き
男も女も大きなジョッキをかたむける

 

どこかに美しい街はないか
食べられる実をつけた街路樹が
どこまでも続き すみれいろした夕暮は
若者のやさしいさざめきで満ち満ちる

 

どこかに美しい人と人との力はないか
同じ時代をともに生きる
したしさとおかしさとそうして怒りが
鋭い力となって たちあらわれる

 

※美しい町とは、人と人とがともに生き、心を通わせる町なんだろう!

 

地球に 種子(たね)が落ちること  岸田衿子

 

地球に 種子が落ちること
木の実がうれること
おちばがつもること
これも 空のできごとです

 

※最後の詩は、ため息のような短い詩です。
 『地球に』『これも』の後の空白!行替えをしても良いのにと思う・・・作者の想いが感じられる。

半藤一利 追悼 NHK R3.2.9

半藤一利氏(81)が亡くなり、NHKのニュース9で取り上げていたのを観た。
「歴史探偵」を自称する氏の遺稿の後書きを取り上げて、その中に氏の生きざまが書かれてあった。
「絶対に」という言葉を使わないと東京大空襲を生き残って誓った言葉を半藤一利氏の戦争体験を描いた初の絵本!「焼けあとのちかい」の中で「戦争だけは絶対にはじめていけない」と非戦の想いが書かれてあったこと。
書くことについての言葉
「むずかしいことをやさしく
やさしいことをふかく
ふかいことをゆかいに
ゆかいなことをまじめに」
など私自身が心がけたい心構えだったので、とても心に響いた。

 

東京新聞のWeb版にも載っていたので紹介しよう。
「大事なことはすべて昭和史に書いてある」と語っていた半藤さんは、そこから学ぶべき5つの教訓を挙げている。
@国民的熱狂をつくってはいけない。そのためにも言論の自由・出版の自由こそが生命である。
A最大の危機において日本人は抽象的な観念論を好む。それを警戒せよ。すなわちリアリズムに徹せよ。
B日本型タコツボにおけるエリート小集団主義(例・旧日本陸軍参謀本部作戦課)の弊害を常に心せよ。
C国際的常識の欠如に絶えず気を配るべし。
Dすぐに成果を求める短兵急な発想をやめよ。ロングレンジのものの見方を心がけよ。

 

全て今の私たちが心がけなくてはならない言葉である。世界に向かって発信して欲しい大事な内容であった。私たちがそれを受け継いでいかなくてはならない・・・合掌!

本考14 「脳科学は人格を変えられるか?」より R3.1.22

いよいよ読書感想文的なブログになってきました。(笑)
この本は、脳科学者エレーヌ・フォックス著である。
早い話が、人間は悲観的ではなく楽観的に生きることがいいという話だ。
原題が、Rainy Brain,Sunny Brain というのでもわかる。

 

表紙裏にある紹介文で全体像がわかりやすい。
◎エジソン、チャーチル、マンデラ……逆境に打ち勝つ人の共通点は「楽観主義者」
◎楽観的な修道女は悲観的な同僚より、平均10年も長生きしていた
◎楽観脳のカギ「側坐核」を刺激すると、強い快感が得られる
◎悲観脳のカギ「扁桃体」が損傷した人は、恐怖や不安を感じられなくなる
◎大事なのは楽観脳と悲観脳のバランスである
◎そのバランスを決める遺伝子がある
◎その遺伝子「セロトニン運搬遺伝子」は、外的な環境によって楽観・悲観両様に発現する
◎だから母親の愛情の量で、子どもの脳のストレス耐性が変わる
◎ロンドンの複雑な道を記憶したタクシー運転手の海馬は三倍に肥大している
◎脳細胞は年をとっても新たに生まれる

 

その中で参考になる?いくつかの尺度が紹介されているので、試してみた。
まずは、全ての質問に回答して点数を記録してから採点を!

 

@楽観性尺度!
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最後に特点の集計法を載せておくが、私は15点で平均的な“ゆるやかな楽観主義”だった。

 

次は、A神経症尺度だ!<img src=
これも私は、24点と平均的な点数で、神経症ではないようだ。

 

最後にB人生に対する満足度の尺度(SWLS)だ!<img src=
これは、内緒にしておこう。しかし、最高ではないが平均以上だったから、まあ良い人生だったのではないかと思うわけだが、人生に悲観しても仕方がないから、そう思うしかないというのが本当のところだろう。(あ、これこそ楽観的ってことだ!)

 

では、尺度の解説を!
@楽観性尺度(LOT-R)の採点の仕方
 全部に回答した後で、下記の点数で合計する。
 質問 2,5,6,8のスコア=0
    1,4,10のスコア A=4、B=3、C=2、D=1、E=0
    3,7,9のスコア  A=0、B=1、C=2、D=3、E=4
 評定 合計点が0に近いほど悲観主義、24に近いほど楽観主義
     大方の人は、15点前後で、ゆるやかな楽観主義 

 

A神経症尺度(エセックス大学版)
 全部に回答した後で、点数を合計する。
 質問 1,2,3,4,6,8のスコアはそのまま
     5,7,9,10のスコアは逆に計算する。
     ○を付けた点数が「5」=1点 「4」=2点 「3」=3点 「2」=4点
             「1」=5点
 評定 平均は、24点前後で低い人は18点以下、40点以上なら非常に高い。

 

B「人生に対する満足尺度」の採点方法とその評価(開発者エドワード・ディーナーによる)
合計が30〜35点の人は"非常に満足度が高い"と分類され、生きることをあきらかに愛し、ものごとはおしなべてうまくいっているように感じている。これらの人は人生を楽しんでおり、仕事や余暇や家族などの主だった分野はみな順調なはずになる。
25〜29点の人も満足度はかなり高く、生活の主な分野はおおかたが順調に運んでいる。
20〜24点は先進国の平均的スコアで、合計点がこの範囲に位置する人は人生にだいたい満足しているが、何かの分野については「もっと良くできるはず」と感じている。
15〜19点の人は平均を若干下回っている。もし合計点がこの領域にあったら、人生のいくつかの領域に小さな、しかし重要な問題を抱えている可能性が高い。
10〜14点の人は「不満足」と分類され、人生の多くの領域が思うように運んでいない可能性がある。
5〜9点の人は「極度に不満足」と分類される。このレベルの不満足はディーナーによれば、人生の多様な領域の問題に起因することが多く、他者の助けが必要な可能性が高い。

 

最後に序章の前に記載されていた言葉で終わりとしよう。

 

人生のあらゆる瞬間において、人間は過去の自分であると同時に未来の自分でもある。
  オスカー・ワイルド『獄中記』

 

悲観主義者はすべての好機の中に困難を見つけるが、
楽観主義者はすべての困難の中に好機を見つける。
  ウィンストン・チャーチル

令和3年始まる R3.1.12 +本考13

あけましておめでとうございます。
といっても、警戒宣言発令あり、コロナ感染者の増加更新など落ち着かない日々です。
そんなときは本を読んで過ごすのが一番。というよりは、それしかやることがない(笑)
年末から年始にかけて読んだ本は、「たゆたえども沈まず」から引き続き十数冊?
時代小説は、寝る前に読むことに決めているので、今五冊目を読んでいる。

 

まずは、その中からT冊 山本一力「牛天神」

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 寛政年間の江戸、棄捐令で先の見えない不景気の中での人間ドラマ「損料屋喜八郎始末控え」シリーズの最新作である。といっても、9年ぶりのシリーズ第四版であるが。
 内容に関しては読んでもらうしかないので、簡単に状況を言うと、武士が札差に借りていた謝金を棒引きにするという棄捐令が出された後、江戸の景気が落ち込んでいる中での損料屋(生活用品のレンタル業)を営む元武士の喜八郎を中心に展開する経済とそれにまつわる人間たちの生活や心情を通して、悪に対して知恵と勇気と仲間の結束で対抗していく主人公の活躍を描いた傑作である。(と私は、思っている。)
 この本を読むと、現在の日本の状況に当てはまるところが多い。経済が回らずに苦悩に満ちた庶民の生活。その中でも襟を正し自分の中に一本の筋をもってキリッと生きていく人間の強さがあり、弱さを結束で強めていく心根がいい。
 巨大市場に町の結束で対抗していく物語が主筋だが、その中で人々の心情が描かれていて、地元を愛し同じ町で暮らす人々の縁を大事にするという物語の底辺に流れている粋甲斐というようなものが、失われた日本の姿を彷彿とさせてくれる。
 今、私も町会の仕事を手伝っているが、コロナ禍で何もできないもどかしさの中で、祭りで結束を強め地元愛を子供たちに残そうとする町の姿に今更ながら想いを巡らす。またそんな町の姿を取り戻すことができるのかと不安なのだが、この本のように知恵と勇気と結束こそが必要ではないかと改めて心を強くもつ必要を感じた。

 

 そして、昼間は物語の他に雑学などの一般書や教育に関する本を読んでいる。雑学としては、大好きな旅と建築物の本「にっぽん建築散歩」は続編も併せて2冊読んだ。(覧たという方が正しいかもしれない。)教育に関しては、「脳科学は人格を変えられるか?」と「思考の教室」を図書館で借りて読んでいるが、「使える脳の鍛え方」は買ったので積ん読だ!
 エッセイは、我が家にも猫がいるので、「猫は神さまの贈り物(エッセイ編)」を読んだ。このエッセイ集の中では、白石冬美「桃代の空」と長部日出雄「家なき猫たち」がよかった。猫がお好きな人は読んでみてください。
 物語物は、重松清の本を2冊、「卒業ホームラン」の中に「さかあがりの神様」という題の物語については、一応器械運動の研究をした者としてコメントせねばなるまい。(笑)
 物語としては、幼いときに苦手な逆上がりのこつを教えてくれた“さかあがりの神様”(実は義父)の思い出と共に、自分の娘に逆上がりを教える自分の姿を重ねて描いている。その中の“こつ”が自分の鬱憤を込めた言葉による“気合い”のようなものだった。物語としては最後に“嫌い”を込めた“気合い”が“大好き”に変わるというところがみそなのだが、技能分析をして考えると気合いだけでは解決しないことなのである。確かに身体の動きの善し悪しを見て、実際にフォローしていくことでできるようになることもあるのだが、もう少し具体的な足の位置や脚の振り上げ位置、そして感覚づくりが大切になる。ここではこの程度で・・・興味にある方は「神谷誠一の体育教育研究」を参照してください。(しかし、逆上がりの練習についてはサボっていて更新していません。(^_^; )

 

 前回述べた「たゆたえども沈まず」についても読み終わったので一言。フィクションなのだが、「ゴッホのあしあと」で描いているように克明にゴッホの後ろ姿を追って描いた物語なので、本当のことのように感じられた。特に「星月夜」のあれがセーヌ川だったとは!なるほど、と言うしかない。ゴッホの絵は好きで、部屋に「夜のカフェテラス」のコピーを架けているが、ゴッホの作品の現物は見たことがない。これから実物を見る旅ができるまで、画集でじっくり観てみようと思っている。

 

では、また次回!