東京大空襲の日 R2.3.10.
母の遺稿「懐かしの青山六丁目」より東京大空襲の日のことを抜粋・・・
あのときは母親と預かった子供たちを青山墓地へ、落ち合う場所を決めて青山墓地へ一足早めに避難させました。あちらこちらで火の手が上がり、家の近くにも焼夷弾が落ちてくるようになり、煙で空が見えなくなりました。私と父親は防空壕に木の蓋をしてその上に土をいっぱい載せ、それに水をかけて簡単に燃えないようにしました。それから父親は野宿することになってもいいように布団を一組自転車の荷台にくくり付け、私は水を一杯入れた大きな薬缶を持ちまして、防空頭巾(父親もそうですが)をかぶり、もんぺをはいて母親と約束した青山墓地に向かいました。
途中表参道のところまできますと、大勢の人が煙に追われて原宿の方へ逃げてゆくのが見られました。なにしろ風上の青山墓地方向は煙で五十メートル先も見えない状況でした。空からは焼夷弾がぱらぱらぱらぱらと落ちてきますし、それが行こうとする先に落ちるので、そのために出る煙もまた凄まじいものでした。それで皆さんのように表参道を原宿の方へ逃げた方がよいのではないかと思い父親に話しましたが、父親は風下に逃げると煙に巻き込まれてやられるから風上に逃げなければならないんだと言って墓地の方へ逃げてゆきました。そのような状況の中を父親にしがみつくようにしながら、重い薬缶の水を持って青山墓地までたどり着きました。
私たちが墓地に着いたとき、取り決めていたところに母親たちの姿が見当たりませんでした。父親と二人でずいぶんと探しまわりました。たまたま預かった子のおしっこをさせに外に出てきた母に私が行き会うことができました。ほっとしまして、お互いに助かってよかったねと嬉し泣きでした。
墓地に着いて周りを見ますと、燃えている火のため空は真っ赤で昼間のように明るく、とても真夜中とは思えないほどでした。また上空にはトタンとか薄縁のようなものが爆風のため舞い上がって飛んでいました。すごく怖くって、わなわなと震え上がっておりました。青山墓地には墓地裏の方にあった陸軍の歩兵第三聯隊の軍馬を避難させるための穴がたくさん掘ってありました。私たちが行った
ときには馬など全然いませんでした。私たちがその穴の中に入って一夜を過ごしました。・・・全文読んでみたい方はこちらのPDFで懐かしの青山六丁目
この文章で分かるように、私の母は、東京大空襲の時、青山墓地に逃げて助かりました。私は、管理職の時に「生と死」という授業を卒業生に行いましたが、このことを使って戦争の恐ろしさと命の大切さを教えたことを思い出します。
この文章の中には風向きを読んだ父親のおかげで青山墓地に逃げて助かったことが書いてあります。ではなぜ青山墓地に行って助かったのでしょうか?
そこには隠された戦争の恐ろしさがあります。アメリカ軍は、緑のあるところには爆弾を落とさなかったからです。それほど正確に位置情報を把握していたのですから日本はかなうはずがありません。なぜ緑の場所を避けたのかというと、そこには建物がない人がいないからなのです。B29は、建物を焼き人を殺すことを目的に爆弾を落としているのです。戦争では人殺しが正当化されるのです。
私は、母親が青山墓地に逃げたからこそ命を受けました。もし反対の方に逃げていたら、私は世に存在していないわけです。まだ、富士銀行が表参道の角に遺っていたときには、人が焼けたことによって残ったシミが見られましたので反対に逃げた人たちは皆死んでしまったのだと思います。
子供たちにも親がいなければ自分は存在しないんだということを教えました。果たしてそのことを理解してくれた子供は何人いたことでしょうか。この日にあったことは、悲しい出来事ですが、戦争は悲しいことだということを子供たちに伝えていかなくてはいけない日なんだと思います。
1〜2月は飛行機づくり
退院して1月に所沢航空記念館に行ったとき、飾ってあった銅製の飛行機模型がかっこよくて、早速エアロベース社より購入して作成金色のマイクロウイングは、全部で11機あります。一番上の5機はグライダーで手に入った5機だけ作って飾りました。
上のように飾り棚に飾ったのだが、写真だと見にくいので棚を下ろして撮影
一番上から(飾り棚では一番下)
ライトフライヤー、アンリ・ファルマン、サントスデュモン
グライダー5機(飾り棚では一番上)
上から2段目 ベビーレーサー、ハンス・グラーデ1909、スピリット・オブ・セントルイス、ブレリオ 11
上から3段目
フォッカーDr.1、エアコDH2、エトリッヒタウベ、アントワネット
本考7 11/19〜12/18入院中の読書
読書一覧
短編復活 集英社文庫編集部 編
新御宿かわせみ お伊勢まいり 平岩弓枝 著
人生をやり直すための哲学 小川仁志 著
古書カフェすみれ屋と本のソムリエ 里見蘭 著
古書カフェすみれ屋と悩める書店員 里見蘭 著
へたも絵のうち 熊谷守一 著
破綻の音 上田秀人 著
天満橋まで 辻堂魁 著
・以下、古書カフェシリーズに載っていた本
脳の右側で描け ベティ・エドワーズ 著
辻征夫詩集 辻征夫 著
パン屋のパンセ 杉ア恒夫 著
光村ライブラリー 18 樺島忠夫 監修 他数点
光村ライブラリーに私の好きな丸山薫の詩があったので紹介します。
第一ページ
新しいノートブックの
第一ページをめくるように
ことしはじめての朝がきた
ことしはじめての太陽がのぼった
新しいノートブックの
第一ページが光るように
ことしの雪がまぶしくつよく
ぼくの顔に反射した
新しいノートブックの
かがやく第一ページの上に
第一行を書き入れるように
ぼくは雪をふんで学校へ行った
新しいノートブックの
第一ページに書いた
第一行をながめるように
ぼくは自分の足跡をふりかえった
ああ新しいことしの
第一ページに書いた第一行は
なんとゆがみなく点々と
丘の雪の上につづいているのだろう
古書カフェすみれ屋シリーズにあった辻征夫の詩を一篇
蟻の涙
どこか遠くにいるだれでもいいだれかではなく
かずおおくの若いひとたちのなかの
任意のひとりでもなく
この世界にひとりしかいない
いまこのページを読んでいる
あなたがいちばんききたい言葉はなんだろうか
人間と呼ばれる数十億のなかの
あなたが知らないどこかのだれかではなく
いまこの詩を書きはじめて題名のわきに
漢字三文字の名を記したぼくは
たとえばこういう言葉をききたいと思う
きみがどんなに悪人であり俗物であっても
きみのなかに残っているにちがいない
ちいさな無垢をわたくしは信ずる
それがたとえ蟻の涙ほどのちいささであっても
それがあるかぎりきみはあるとき
たちあがることができる
世界はきみが荒れすさんでいるときも
きみを信じている
11/19〜12/18 左肩腱盤断裂のために入院
腱盤断裂とは=肩を支えている筋が切れて神経に触り痛くなること。
私は、1年以上前から痛かったが、年齢が高くなると切れやすくなり、先生によると
昔は死んでしまうような年齢でも今はまだまだ長生きするので手術をするのだと!
11/19 入院
10:00 入院手続きのため病院へ
10:30 入院手続きを終え、病棟ナースステーションで手配を受け302号室へ
(手術前後3日間は個室で過ごす)
その後、病院内売店で手術着と寝巻の手配をし、水2本購入
12:00 昼食 出ないのかと思っていたが、ちゃんと出る。(うどん)
16:00 シャワーを浴びる。
16:30 担当医が来て挨拶。手術する左手甲に マジックで○印を書いていく。
(この後、常に名前と生年月日を言わせられる。)

19:00 夕食 21:00以降の飲食禁止(水は次の日の9:00までOK)
11/20 手術(予定13:00)
7:00 朝食は出ず、逆に浣腸(普通は、60mlのところ120ml入れられ
て便所までなんとかもったという感じ)
8時過ぎても点滴が始まらず、看護士さんも忙しいのかな?
9:00 すぎにやっと点滴_(腕の向きで止まってしまうので、チェックしなが
ら手術着に着替え安静に)
12:00 妻が来院したが、なかなか始まらず。
12:50頃から準備して、ギリギリで手術室へ行く。
13:00 手術室に入り、生年月日と名前、手術部位の口頭確認
帽子をかぶり、手術部屋に入る。
手術台に乗り、身体を合わせて寝ると、慌ただしく看護士さん2人が
作業(心電図のシール貼り、点滴、血圧計、酸素量を計るクリップ)
手足をひもで軽く締め、手術着をはがして酸素マスクを付ける。
バタバタしているうちに麻酔が入ったらしく意識がなくなる。
16:00 麻酔から覚め、部屋の戻る。その間の記憶は全くなし。
その後も何となく気分が悪く、麻酔が覚めるに従って痛みが出る。
尿意があってもにょうは出ない。(しびん)
11/21
5:00 立ってトイレに行っても良いと言われトイレで排尿
その後、2時間おきくらいで出ること(笑)
7:00 朝食のおかゆが出る。さすが、あまり食べられず。(その後全部完食)
8:00 トイレに行った後、装具を左腕に付ける。大きな円筒形の枕を抱えて
いるような感じ。
痛み止めの薬を飲んで少し楽になったが、眠い。
15:00 1回目のリハビリ
担当の桜田さんが迎えに来て、一緒にリハビリ室に歩いて行く。
リハビリ室は、病院の一番奥に有り、広い空間にビニール貼りのベッド
と様々なリハビリ用の器具がある。
初めは、腕を伸ばすだけのリハビリ。
18:00 夕飯完食
20:00 38度の熱が出て,眠った.
しかし、2時間おきにトイレにいくので目が覚める。
11/22 朝起きたら熱は下がっていた。
9:30頃に看護士さんが来てリハビリとシャワーの予定を知らせてくれる。
10:30 突然、半袖長靴姿の女性が現れ、「シャワーです」
「エーウソ、3:30って聞いてたけど」確認して戻ってきたけど変更
になったとのこと(笑)
しかし、準備してない!
その女性、荷物の中を探して、シャンプー、石鹸、タオル、パンツを
用意してくれ、着替えのパジャマを持って一緒にシャワー室へ
シャワー室では、まず脱衣所で上着衣を脱ぎ、防水テープで傷口周りを
テーピングし、上半身をカバーする防水上着を着る。次に、いすに座って
下着衣をすべて外してビニールカーテンで仕切られたシャワー室へ
シャワー室では若い女の子が待っていたので、びっくり!まあ、こっち
は、おじいさんだから良いんだろうけど(笑)
いすに座って下半身を自分で洗う。とにかく何でも片手なので不便!
その後、若い子が頭を洗ってくれる。シャンプーはよくしてくれたが、
流すのはアっと言う間だった(笑)
頭をタオルで拭いて、防水上着を取り、全身を拭いてパンツを穿き、
パジャマを着て病室に帰る。
14:30 男性看護士さんが一緒にリハビリ室まで送ってくれる。
一人で行けるかどうかを確認するためらしい。
リハビリしながら担当の人に聞くと、痛みもなくなってくるし熱も出る
ことは稀だということなので、手術の時に骨を削ったせいかと思う。
先生の許可があれば外泊もできるとのこと。
11/23
8:00前 やっと大便が出てホッとする。浣腸してから2日間無かったので!
熱は下がったけど、腰が痛くなってきたのでなるべく起きていることに
した。
14:00 やることもないので、売店に行ってみると棚がガランとしている。
食堂が休みだからお見舞いの人が購入したのか?
シュークリーム最後の1個があったので、コーヒーと一緒に購入して
部屋で食べる。(元気になると食欲が出るんだなあ〜)
11/26 いよいよ4人部屋へ移動(本当は22日頃の予定だったが、部屋が
空かなかったため3日ほど長く個室にいられた。)
11:00 移動のために食堂で待機。(ベッドと棚を係の人が移動する)
その後移動する部屋を確認してリハビリに行く。
12:30 昼食後、部屋の人たちに挨拶
21:00 消灯とともに寝ようとするが、なかなか眠れない。
やはり4人部屋に慣れていないせいか?
11/27
6:00 起床 寝不足か?頭が少しボーッとしている。
この後は、毎日リハビリとシャワーしかやることのない日々が続く。
できることは、本を読むことと持参したビデオを観ることくらいなので、次回は、
読書から学んだことを載せるつもりです。
19.10.26豊島区立要小学校創立20周年記念式典・祝賀会に行ってきました
10時から記念式典
12時30分より祝賀会が催されました。
その時に話をする機会がありましたので、その話を差し障りのない程度に載せます。
命 実演(笑)
要小20周年おめでとうございます。
私が10周年を行ったときは、Tさん亡くなったIさんとタッグを組んで行いました。実際には、全てKさんがやったんですけどね(笑)
周年は、一つのけじめ、節目であるとも思います。省みる時でもあります。
先日、ラクビーで日本代表が健闘しました。
その時、思い出したのが「ひとりはみんなのために みんなはひとりのために」という言葉です。私は、よくクラスの合言葉にしていました。
今日も図書室の劇団四季の講演で流れていました。
One for all All for one ですね
本当は「ひとりは、みんなのために みんなは、ひとつに向かって(又は一つになって)」そのひとつを三銃士では勝利のためにということだったので、そこからラグビーでも使われています。
ラグビー日本代表は、勝つために一つになることを目指したので感動を呼びました。では、学校は何のために一つになるのでしょう?
それは「子供のため」子供をよりよく育てるために一つになるべきなのです。
その実現には、子供をよりよく育てるために何が必要かを、いつも考えていることです。例えば、「子供の好奇心をつぶさずに伸ばしているだろうか?」「子供の気付きをしっかり把握し、生かしているだろうか?」「子供の声に耳を傾けているだろうか?」・・・
そういうことを積み重ねて要小の20年がなり合っていると思います。それを支えてくれたここにいる皆さんに感謝します。
最後に、野崎美夫さんの『きのうは変えられる』という詩を紹介します。
〈きのうは変えられる/だって自分の思い方を/変えればいいだけなんだから/どんなきのうも/いいきのうだったと思えたひとに/きっといいあしたがやってくる〉
私は、よく「過去は変えられない。だから、今が大事。」と言っていますが、この詩を読んで、過去も考え方一つで変えられると思いました。昨日の失敗が今日の、明日の成功につながっていく可能性は常にあるわけで、だからこそ、一日一日を、大切に過ごしていく必要があるのだと考え直しました。
過去を省み、今やることに一つになり、要小を更に発展させていってください。子供たちのために心から皆様にお願いして、あいさつに変えさせていただきます。ありがとうございました。
とても素晴らしい周年行事でした。感謝!
19.09.28 ラクビー日本代表アイルランドに歴史的勝利
それで思い出したのは、「一人はみんなのために みんなは一人のために」という言葉だ。
私が担任の頃、よくクラスの言葉として掲げた言葉なのだが、ラグビーから来たものだったらしい。
後で知ったことだが「One for all, all for one」の本当の意味は「一人はみんなのために みんなは勝利のために」ということだったようだ。
全員で勝つためには、一人一人が自分の役割を全力で果たすのだ、ということだろう。
元々は、「三銃士」で銃士が誓い合う時に使われた言葉ということだが、「みんなは一人のために」ではなく「みんなはひとつのために」ということではないかと思う。
みんなは、ひとつの目標のために一丸になる。勝利のためにはそれが必要だということだろう。
助け合いというより一個の人間としてしっかり役割を果たすことが全体を支え勝利に導くということかな。
会社や学校もひとつになることができれば強い。
会社の利益や自分の生活のためでなく、会社の理想や理念のためにひとつになることができれば、よい会社や学校ができると思うのだ。
しかし、教育においては「一人はみんなのために みんなは一人のために」でいいと私は思う。
そこには子供たちのクラスに対する正しい生き方や思い、願いが現されている。
一人一人が全体のために力を合わせ、協力し努力する。そして、一人のためにはみんなが力を合わせてバックアップし見捨てない。
もちろん一人一人がしっかり役割を果たさないと何も生み出せない。
学校生活にはこのことが必要となる様々な出来事があった。
あるときには、学芸会の途中で背景に作ったベニアの岩の支柱が途中で外れ、最後まで支えた裏方の子供がいた。
またあるときには、運動会の組み体操でつぶれそうになったタワーやピラミッドの下の段で歯を食いしばって支えて子がいた。
そうしたことがあったとき、目には見えなくとも努力し役割を果たしたことが、クラス全体に生きてくる。
感動は、そういうときに生まれる。その感動は、クラス全体で共有することができる。そして、周りにも多くの感動を与えてくれる。
こういうことがあれば、クラスは一つの社会として成り立っていく。
そのことが、子供たちが正しい社会を作り上げていく力となると私は今でも信じている。
ラクビーの感動から「一人はみんなのために みんなは一人のために」を思い出し、教育に生かして欲しいと感じた。
感動をありがとう、日本代表!
「One for all, all for one」
本考6 19.09.24 美女という災難 08ベストエッセイより
この本題は、この本の中にある有馬稲子のエッセイからとったものだ。
美女というレッテルを貼られた災難を描いたエッセイだ。
このように洒落た題名のエッセイが表題になるエッセイ集だ。
この中で気に入ったのが「独裁者コレクション」鹿島茂(明大教授)
世界の独裁者が残した記念品などを集めるのが趣味なのだが、あるミュージアムで安く手に入れた物がなかなかの珍品で、販売者がそれに気付いていないことでコレクターとしての矜持が満たされたというものだ。
特に最後の一文が気に入った。
「なんとくだらない喜びであることよと笑うなかれ!くだらなさこそが「遊び」の真の醍醐味なのである。」
二つ目は、「教育は家庭を巻き込め」という小林和男(ジャーナリスト・作新学院大学教授)氏のゼミの話
一部抜粋させていただく
そのころ世間は子供の自殺問題で騒いでいた。学校で子供がいじめに遭ったのが原因で自殺したとして、親が学校や教育委員会を非難し、メディアも同じように批判していた。
メディアで伝えられるその対応には確かに事なかれ主義がふんぷんとして褒められたものではなかったが、私がまずいと考えたのは家族の方である。
子供のことは親が一番知っているはずだし、知っていなければならない。
子供が死ぬほど悩んでいるのに親が気がつかなかったでは親の役割を果たしていない。教育の一番重要な場は家庭だというのが私の信念だ。
そこでゼミの学生に宿題を出す。
学生にはゼミでの講義のほかに毎週課題を与えた。ゼミで取り上げた文章を家に持ち帰り、両親や家族に説明し、それについて家族で話し合いをする。
その結果は毎週リポートにして提出するという課題である。・・・教育の場はまず家庭だという強い思いで家庭を巻き込んだ教育の試みだ。
教育者としての私も自分の子供が何かしでかしたときは、職を辞す覚悟をしたことを思い出した。
最後に「磯吉さんの法事」という吉岡昭子(管理栄養士)氏が、父の二十五回忌の法要が岩国の実家で行われた時の献杯に話した父とのこと三つの話。
そのまま引用させていただく。
最初は友人に裏切られて悩んでいた時のことだ。私は「父さん、もし友達に裏切られたらどうする?」と聞いた。「友達に裏切られた?」と問い返した父は、一呼吸おいて「俺は裏切るような人間は友達だとは思ってないよ」と答えた。「そうか!」友達ではなかったんだ、と私の気持は軽くなった。
次は。この時、私は腹が立っていた。「父さん、私ね、人の誠意の判らない人、嫌いよ。誠意の無い人も嫌いだけど」と吐き捨てるように言った。父は何でもない事だと言うように穏やかに「昭子、それはねえ、受信機と発信機のようなもんだよ。波長が同じだと通じるけど、誠意のない人は、人の誠意を受信することが出来ないんだ」と言った。私は、この言葉に納得をして落ちついた。
最後の話は結婚して間もなくの頃のことである。夫の弟が経済的な理由で大学を断念すると言う。私は「私が面倒を見ます」と啖呵を切った。しかし現実に預かって見ると、これが如何に大変かを思い知らされたのだった。父に話を聞いて貰ったら、「昭子」と父は優しく言った。「やり甲斐のある苦労はせい」と。だから、私は頑張ることが出来たのだと話した。
そして私は但し書きの言葉を付け加えた。「昭子、人生はね、自分のした事しか返って来ないよ。もしお前が友達を裏切ったら自分の心から友達を失う。自分が誠意を持たないで人に誠意を求めるのは無理だよ」と。
さて、私は父親としてこんな素晴らしい言葉や思い出を残すことができたのだろうか?
能なしの父親として消え去るのみなのかもしれない。
本考5 19.9.16 山本周五郎「寝ぼけ署長」より
この本は、ずいぶん昔に出た本ですが、最近文庫化されたので読んでみました。
その中に気に入った言葉がありましたので、紹介します。
夜毎十二時 より
「人間は死ぬまでしか生きない。たしかに愛し合うのは生きているうちだけです。愛する者があったなら、そしてその機会が来たら、時を失わずに愛するがいいのです。」
我が歌終る より
「どんなに真実な愛でも、そのために誰かを不幸にしたり、他から恨まれたりするようでは、本当でもなし幸福でもない」
本考4 アイデアのつくり方 19.9.04
「子どもは40000回質問する」という本を読んでいたら、その中に「アイデアのつくり方」という1960年に日本で出版されたジェームス・ウェブ・ヤングの本を取り上げて論じているのを見て、改めて目を通してみた。
この本は。アメリカの広告クリエーターのバイブルといわれている本で、1940年に発刊されたその本(原著)の中身は今でも変わらない真実を現している。
この本でヤングは、アイデア作成の基礎となる一般的原理が二つあり、「アイデアは一つの新しい組み合わせである」という原理と、「新しい組み合わせを作りだす才能は事物の関連性をみつけだす才能によって高められる」という原理であると述べている。
アイデアを作る実際的な方法あるいは手順は、五つの段階を経過してはたらく心の技術だと言う。
その5段階とは、
第一 資料集め・・・諸君の当面の課題のための資料と一般的知識の貯蔵をたえず豊富にすることから生まれる資料。
第二 諸君の心の中でこれらの資料に手を加えること。
第三 艀化段階。そこでは諸君は意識の外で何かが自分で組み合わせの仕事をやるのにまかせる。
第四 アイデアの実際上の誕生。〈ユーレカ!分かった!みつけた!〉という段階。
第五 現実の有用性に合致させるために最終的にアイデアを具体化し、展開させる段階。
である。
解説で竹内均氏が、「著者と私の考えがあまりにもぴったりと一致していた」と言っているが。私も同感だ!
それは、アイデアが生まれるために必要な過程が整理されているからだ。
全く同じになるわけでは無いが、私もまず資料集めから始める。考えの元になる情報をとにかくできる限り収集する。
そして整理する。(私は、必ず紙面にまとめるということをした。今はパソコンの中にデータとして整理するのだが、必ず人に伝えるように文書化していく。)
そこから「寝かせる」という作業に入る。(実際は、何もしない。そこで完結してしまったようだが、実は自分の中に蓄積していく。)
すると、突然「ひらめく」時がある。それを具体化(実施案、計画案、作業・・・)して使ってみるという作業で、また次の検証段階に入っていくのだ。
良い例を思い出した。
私が、東京都教育研究員(体育科)の時のことだ。
自主冊子作成の最終段階で印刷所が原稿を取りに来たときにまだ一番大事な考え方のまとめの部分が見開きで1枚できあがっていなかった。
その前に担当者全員が集まって頭を寄せ合って考えたが、どうしてもまとまらない。
ところが、印刷所の人が来たとき「ひらめいた」のだ。
引き渡しを30分待ってもらって早速原稿を元になる考え方の関連図として作成した。
私が大まかな考えを簡単に図でまとめたものを全員で分担して原稿として起こしたのだ。
全体図を描く者、文書を思い浮かべる者、文書として書く者、具体的な身体の動きを描く者・・・手分けして作業し、30分で作り上げて入稿したのである。
表現・基本の動きPDF
元になる考え方が、最後になってできあがったというのもどうかと思うが、実際はそれまでの集積が形になったのだと思う。
たまたま中心となって考えをまとめたのが私だっただけで、それまで研究してきた全員の知の結果の産物だったのだ。
私は、ヤングの考え方にプラスして自分だけでは無く、多くの人間の力の結集を大きな作用として挙げたい。
そのことは、自分の教育方法の中に集団での相互教育の考え方が生まれたきっかけでもあったのだ。
アンパンチで子供が暴力的になるのか? 19.8.31
この意見は、子供に考えたり教えたりするせっかくの機会を失わせてしまっている。だから、大人になっても暴力をふるう人間が多く生まれ、争いが無くならないのだ。
私も小さいときによく戦争ごっこやチャンバラごっこをした。その時に、痛い思いをしたりさせたり、けがをしたりさせたりしたからこそ、暴力はいけないことだということを経験で学んだ。
その後、何をされてもやり返さなかったので、いじめられたりもした。でも、後悔もしていないし、今でも自分が何をされても相手になることはしない。暴力に暴力で対抗することが強さでは無い。自他の暴力に負けないことが強さなのだ。
宮城まり子さんが言っている「やさしくね、やさしくね、やさしいことが強いのよ」と。
教員になってもその考え方は変わらなかった。
さすがに、高学年になると力が強くなるので、けがをする可能性が高くなるから暴力的なけんかは間に入ってお互いの意見を納得がゆくまで聞いた。子供でも話をして、自分の言うことを言い、時間が経って冷静になると、だんだん自分のことを省みるようになり解決することができた。
でも、低学年ではなかなか興奮が収まらないこともあったので、泣いたら負けだということと、危険な行為ややってはいけない行為をを教えてから目の前でけんかをさせた。泣き出したり、危険な行為があったりしたらその時点で負けを宣言するためだ。
あるとき1年生でけんかの仲裁に入ったが、どうしても納得がいかないので、けんかをさせたことがある。初めは、パンチを出し合っているがそれからすぐにつかみ合いに」なった。しばらくもみ合っているうちに疲れてきて、最後はお互いつねり合って同時に泣き出して終わりとなった。
もちろん、そのことは二人の親に知らせたのだが、今ならクビものかもしれない。
次の朝、二人が肩を組んで教室に入ってきたのには驚いた。それ以来二人は親友になったのだ。
私が、管理職になる覚悟ができたのも暴力が関係している。
あるとき、いつも悪さをしている男児が、誤って自分が倒れた時に女児を巻き添えにしてしまったことがあった。その時に女児の父親が学校に来て、その男児を隙あらば殴るのだ。女児に謝りに行こうと靴を履き替えているときや女児の家に行って家に上がろうとするときなども殴るのだ。
私は、その都度間に入って男児が殴られないように守った。その時以来、その男児は悔い改め、後に学芸会の主役を果たすくらいクラスの中心になって活躍するようになった。
私もその時、子供を身を挺して守ることができると思ったし、どんな暴力からも必ず子供を守るという覚悟ができたのだ。
私は、「アンパンチで子供が暴力的になる」というような意見が出る日本は危ないと思う。
文明が発展しすぎて無秩序な社会になっている中で、唯一秩序を保てるすべである「文化」を捨てるような無能な親が増えていることに危機を感じるのだ。経験できるときに経験することを奪うことで、人間としての成熟をねじ曲げてしまうことに気付かない者が親になっているのだ。何でも先に先に危険なことを排除すると、危険に対応する力を失ってしまう。実際、現在の親世代もそういう育てられ方をしてきたからなのだと思う。ということは、自分たちが今の親世代を教育してきたのであるから、天につばを吐くようなものなのかもしれないが(笑)
最後にアンパンマンのことをどう教えたら良いのかを書いておこう。アンパンマンは、大切な日本の文化だと思うからだ。
それには、やなせたかしさんの言葉を借りることが一番だと思う。(ORICON NEWSより引用)
やなせさんは「正義とはかっこいいものじゃない」と譲らなかった。
アンパンマンに込めた“本当の正義”とは、「お腹をすかせた人を救うこと」だった。
彼は、第二次世界大戦時、24歳で中国に出征した。飢えに苦しみながらも日本の正義を信じて戦ったはずが、戦後「悪魔の軍隊」と呼ばれ、信じていた“正義”が一変した。
自著『アンパンマンの遺言』(岩波現代文庫)で、
「正義のための戦いなんてどこにもないのだ。正義はある日、突然反転する。逆転しない正義は献身と愛だ。目の前で餓死しそうな人がいるとすれば、その人に一片のパンを与えることだ。」と、言っている。
やなせさんは、アンパンマンを「世界一弱いヒーロー」と評している。
顔が濡れただけで弱ってしまうし、新しい顔を自分で作ることはできないので、毎回ジャムおじさんに助けを求める。それでも決して武器は持たず、自分の力のみで闘う。
「自分が傷つくことなしに正義を行なうことはできない」というのも、やなせさんが戦争で学んだ持論だ。戦場で飢えている子どもがいたら、自分が空腹でも食べ物を分け与える。人が川で溺れていたら、泳ぎが得意でなくても飛び込んで助ける。
ヒーローは“強いから”闘うのではなく、“弱くても”闘うということなのだ。従来のヒーローのように、見た目が格好良いわけでもなく、強い技や武器を持っているわけでもなく、“アンパンチ”で正義を守る、それがアンパンマンの姿なのである。
1973年からアンパンマンの絵本を発行しているフレーベル館は、やなせさんとともにさまざまな読者の疑問に答えた『アンパンマン大研究』を出版している。
その中で「アンパンマンは、ばいきんまんをやっつけるだけで、なぜ捕まえないのですか?」という問いに対しては、「アンパンマンとばいきんまんは、光と影、陽と陰、あるいはプラスとマイナスのような関係です」と答えている。
また、「アンパンマンは、なぜすぐにばいきんまんをアンパンチでぶっ飛ばさないのですか?」という問いには、「ばいきんまんの悪事をとめるのが目的で、やっつけることが目的ではないからです」と答えているのだ。
アンパンマンとばいきんまんの闘いは、誰しもが抱く“良い心”と“悪い心”の象徴であり、常に“悪い心”を自身の“アンパンチ”で制御しながらバランスを保っている人間そのものを表しているという。だから、アンパンマンは顔を汚されたりつぶされたりするが、決して死ぬことはないし、ばいきんまんもアンパンチを受けて突き飛ばされても、また翌週には元気に現れる。
絶えず良心と悪心が共存する人間のように、どちらか一方が完全に勝利することはなく、この闘いは永遠に続いていく。単に暴力で悪を排除するという話ではないのだ。
アンパンマンとばいきんまんは、酵母菌がなければできないパンや無菌状態では生きていけない人間同様、闘いながら共生している。しかし、菌が増えすぎてしまっては美味しいパンはできないし、人間も病気にかかってしまう。そういう意味では、“アンパンチ”とは平和なバランスを保つための“調整剤”ともいえるかもしれない。暴力や戦争という直接的な解決手段ではなく、むしろそうした悲劇を生み出さないために、人間が本来持っている“抑制力”や“制御力”を表現したものではないだろうか。
アンパンマンとばいきんまんの関係性は、“アンパンチ”で善悪バランス保つ人間そのものなのだ。
これでも「アンパンチで子供が暴力的になる?」のだろうか?なぜ、本質を考えさせたり、教えたりしないのだろうか?現象だけを捉えて、本質を見ないという、ありがちな例だと思うのだが・・・
AI兵器の話題に思う 19.8.23
最近、AI兵器について話題になっているのでロボット三原則のことを思い出した。
知っている人も多いと思うが、SF作家のアイザック・アシモフ(lsaacAsimov,1920-92)が自身の短編集『わたしはロボット(I,Robot)』(1950)の中で提唱した三原則だ。
その三原則とは!
ロボットは、
(第1条)人間に危害を加えてはならない
(第2条)第1条に反しない限り人間の命令に服従しなければならない
(第3条)第1条および第2条に反しない限り自己を守らなければならない
の3つである。
AI兵器がロボットに値すると、ロボット三原則の(第1条)に引っかかってしまう。
そこで、ロボットを人間に置き換えるとどうなるか考えてみた。
人間の三原則とは!
人間は、
(第1条)自分を含めどの人間にも危害を加えてはならない
(第2条)第1条に反しない限り自他の心を大切にしなければならない
(第3条)第1条および第2条に反しない限り人間としての自己を守らなければならない
これを読んだ人がいれば、考えてみてはいかがかな?