児童見守り全体会で話したこと 5.2.28
私は、週1回地域の児童下校の見守りに立っています。
その集まりが、小学校でありました。
その時に話したことと、その後まとめたことをお知らせします。
PTA校外委員長から「あいさつ」について、「挨拶するとされた人は喜ぶ、嬉しいと伝えていく」と話がありましたので、一言(いっぱい)言いました。(笑)
相手のため人のためというのは、大変素晴らしい、良いことです。
(これは、子供に言葉で教えるのではなく、実際場面で「ありがとう」「うれしいな」とこちらが嬉しいことを伝えていく事の方が良いと思います)=心の声
子供たちは、自分で自分を守るという意識が薄いので、挨拶も自分自身を守ることだと教えて欲しいのです。誰かの目で守ってもらうことは、多くの人と関係を持つということで、その初めが挨拶なのです。
「自分で自分を守る」ことをしっかり身に付けさせることが、保護者の責任です。
見守りボランティアは、皆さんの善意で成り立っています。しかし、その善意に頼れない時代になってきています。ですから、「自分で自分を守る」ことが大切なのです。
それでも時間を短くするためはしょって話しましたので「自分で自分を守る」ことを身に付けさせる方法について補足します。
子供たちは、言われてやることが多いと思います。親も子供たちに社会的規律を身に付けさせようと教え込もうとします。自分の言うことを聞かせようと思ったり先回りしたりしてはいないでしょうか?
しかし、子供は、実はとてもよくわかり、よく考えていて、親の期待に応えようとします。また、自分の考えを通そうとすることもあります。(極端になると子供はウソをつくようになります。)
どうやれば、子供が自分からより良い道に進めるかというと「自分で決める」「自分で判断する」という力を付けさせることです。
何でも好きなようにやらせるわけではありません。より良い方向に導いてやるのです。
例えば、何か問題があったとき「ダメ」「違う」とは言わないで、「あなたはどう思うの?」「どうすれば良いと思う?」と問いかけるのです。
そして、良い答えだったときは、「良い考えね」「私も同じ考え」「自分で判断できてえらいな」などと肯定し、違うときは「私だったらこう考えるけど、どう?」とI(アイ)メッセージで話します。
常に、子供自身に判断させることが大事です。そういう積み重ねが自分で判断し自分で決められる子供を育てるのです。このことは、その後の人間としての成長を助けます。
そのような場面を作って教えていく活動の例ですが、防犯研究者の立正大学 小宮信夫 教授による「地域安全マップ」作りなどもよい例です。その例を使って手順をお話します。
@犯罪に強い3要素(領域性、監視性、抵抗性)に基づき、危険な場所と安全な場所の基準とその例を示し、理解を図る。(判断基準を示す)
A地域安全マップの作成の仕方を教える。(行動の仕方を教える)
B班編制をして子供たち自身で危険箇所を調査しに行く。(同行の保護者は、領域性と監視性のハードとソフトの場面をマニュアルで確認しながら同行する。)付き添いの保護者は、問いかけることはあっても教えることはしない。(自分の力で見つける)
C帰ってきたら、地図に表し、低学年に危険箇所を教える。(記録し、人に教えることで確実になる)
このような活動の良いところは、自分の力で危険なところを見付けることで、自分の中での安全基準を作り、自分で危険箇所を判断できるようになることです。その経験が大きくなっても危険な場所や環境に近づかなくなるという判断基準を持ち、危険個所を避けることにつながっていくのだと思います。
春が近づいてくるA 5.2.24
航空公園では梅が咲いている
河津桜と飛行機C-46 そのプロペラにスズメ
春が近づいてくる 5.1.26
航空公園のロウバイ園です。2月までは見られるかな?
加賀乙彦さん逝去の報にふれて 5.1.18
加賀乙彦さんの逝去は残念でなりません。作家としての作品へのコメントが多いのですが、私にとっては「不幸な国の幸福論」という人間の幸福とはいかにあるべきかという論説書が一番大切な本です。その中にある「幸せを追求する人生から、幸せを生み・担う生き方へ」という人間の生きる姿勢が幸福を作るという考えに肯きます。老後や死についても述べているので、ぜひ読んで欲しい本です。
本考42「不幸な国の幸福論」加賀乙彦著
帯封には『挫折と逆境こそが「幸福」の用件である』とあります。本の中から少し拾ってみたいとおもいます。
「不幸がもたらす幸せ」より
自分は幸福だと思っていた人が突然の不幸に見舞われることもあれば、不幸を嘆いていた人が幸福になることもある。かと思えば、またそれが逆に転じていく……。そんな禍福のありようを、これまでに幾度となく目撃し、自分自身味わってもきました。
まさに、禍福が縄のようにより合わされているのが人生。幸福も不幸も一生をとおして持続するものではありません。だから、あまり急いで事を決しないほうがいい。自分は不幸な人聞だなどと決めつけ自殺でもしようものなら、これから巡ってくる幸せを味わえなくなってしまうではないですか。
「挫折は幸福の要件である」より
子供時代に挫折体験を乗り越えてきた人は、つまずいたとき上手に転ぶことができます。たとえ足の骨を折ったとしても、首の骨まで折ることはありません。そういう意味では、いじめや挫折、とくに若いうちの苦しみは幸福になるための要件だと言っても過言ではないでしょう。
だから、若い人たちには失敗を怖れず挑戦してほしい。傷つくことを怖れず人と深く関わり、希望をもって世界を広げていってほしい。辞書では、成功の反意語は失敗ということになっていますが、実際の人生においては「チャレンジしないこと」なのです。
傷つくことを怖れて自分の殻のなかに閉じこもっていると、ますます傷つくのが怖くなってしまいます。しかし勇気を出して殻を破り、何度か失敗したり傷ついたりしているうちに、なんだ意外と平気じゃないかと思えてくる。そのときはつらくても、苦しみはやがて薄れていくこと、心というものがけっこうタフであること、マイナスだと思った体験が心を鍛え、その後の人生でプラスに作用していくこともわかってくるはずです。
「自分を喜ばせてくれる何かをもつ」より
人聞には残念ながら、自分より下の存在をつくることで不安や焦りを解消する性向があります。自分に自信がなく、人と自分を比べて心のなかで優劣をつけている人ほど、いじめという行為に走ってしまう。しかし、他者との比較や競争、他者からの評価と無関係な「好き」を見つけられれば、それを核にして少しずつ他者を気にすることから解き放たれていきます。「自分は自分」と思えるようになり、健全な自尊心が育っていくのです。
「幸福の源泉は「しなやか」な精神」より
これがなければ幸福になれないという思い込みを捨てること。自分を不幸だと決めつけず、身のまわりにある小さな幸せに目を向けていくこと。「今、ここ」にとらわれず、場を広げ、人生というロングスパンで自分の置かれている状況を見ようとすること。挫折も幸福になるための要件だと考えること。今の混乱をチャンスと考え、これまで自分たちを縛っていた価値観を見直し、人にも環境にもやさしい生き方を模索していくこと……。
そう、スープルな精神こそが幸福の源泉である。しなやかな生にこそ希望があるのです。
「期待する」のでなく自ら「生み出す」より・・・ここでは私の大好きなヴィクトール・フランクルの事を取り上げている。
こんな人生には意味がない、と自殺願望をロにするようになった仲間に、フランクルは懸命に語りかけます。人生は、あなたに何かを期待している。生きていれば、未来に、あなたを待っている何かが必ずあると。
もし運命があなたを苦しめるのなら、その苦しみを引き受けることに、二つとない何かを成し遂げる、たった一度の可能性がある。人間が生きることには、常に、どんな状況にも意味がある。苦しむことにも意味があるのだ。だから、人生に期待するのをやめて、人生から自分が何を期待されているかを考えよう。
その他「子どもの自尊心と大人の自尊心」・・・・
いくつ取り上げても終わらないので、後は本を読んでください。
本考41に追記しました。同じ公事宿事件書留帳「虹の見えた日」より
八助という下駄の歯入れ屋に根付けの禅の考えを話すと八助が言う
「禅の世界の考えどすやろけど、旦那は人間元来無一物という言葉を知ってはりますやろ」
「おお、よく知っておるぞ」
「その言葉にに、前旬があるのをご存じありまへんやろ」
「ああ、それは知らぬなあ」
「歳月名利を忘滅させ、人間元来無一物というのどすわ」
まさに八助は、人間元来無一物を地で行こうとしている。
「本来無一物」といったように記憶しているが、その解釈は、「存在する物は、本来すべて空(くう)であるから、わが物として執着すべきものは一つもない。一切のものから自由自在になった心境。」だと考えられるのだが、この八助の言うことももっともだと思う。
全ては過ぎ去ったこと、前のことを考えるより空(くう)となり今を考えるべきだと私も思う。
さて、「公事宿事件書留帳」も後1巻、22巻を残すのみ。大体1週間で1冊ペースで読んでいるので、4〜5ヶ月かかっただろうか?
教育関係の本と同時進行で読んでいるので、次の本考はそっちかな?
本考41 時代小説にも良いたとえあり その3
澤田ふじ子「公事宿事件書留帳」の続き「鴉浄土」より
「わしにもそなたの顔にも、目には見えぬ烙印が、膀曲がりとか偏屈者とか、捺されているようじゃでなあ」
「目には見えぬ烙印」
「いかにも。弘法大師は晩年に記された『秘蔵宝鎗』ともうす書物の中で、生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終りに冥しと記されている。
このお言葉をわしに解釈させれば、人間はいくら同じ人間に生まれ変わって生を受けたとて、所詮、どうにもわからぬものじゃと、大師は溜息をつかれているのだろうよ。・・・」
私にもこんな目に見えない烙印が押されているような気がする。自分というものがどんなものかわからないまま生きているのだけれど、わからないままにも自分を生きていくしかないのだろう!!!
また、こんな言葉もあった「人は自ら変わろうとすれば、必ず変われるものじゃ。・・・。世の中にはそんなこともないではないわい」
自分で変わろうと思えば変わることができる。しかし、変わろうと思わない、思えない、思いたくない・・・等の自分と戦わなくてはならない。「自分に勝つ」とは、そんなところから生まれてきたのではないだろうか?
また、自分の都合の良い方へと変えてしまうのが人間とも言えよう。余程、自分をしっかり見つめることができないと、よい方向へとは変わることができない。だから、人間一生勉強一生努力が必要になるのだと思う。一番不可解な自分という人間を解釈し、仲良くしていくためには!